テクスト論的にいえば、作品は読まれないと存在しない、ひっくり返せば読まれることによって初めて存在するわけで、だからいかに作家が作品に厳密な意味を規定しようと、読者はそれをどのように読んでもいいし、また読むべきである。作品は作家の手にあるのではなく、読者との相互関係の中にあるのだ。 ということは、もちろん映画でだって、鑑賞者はそれをどのようにも見ることができるはずである。だからたとえその作品が世界的映画監督アンドレイ・タルコフスキーの処女長編『僕の村は戦場だった』であろうと、鑑賞者であるぼくはそれをどのように見ても、たとえばB面から見たとしてもまったく問題はないはずだ。 (ぼくはふだん大学図書館…