室町時代に駿河国の守護大名でその後、戦国大名となった武家である。本姓は清和源氏。家系は足利氏一門。吉良氏の分家にあたり、足利一門の中では斯波氏に次ぎ、名門中の名門である。戦国大名としての今川氏は今川義元が桶狭間の戦いで討ち死にしてから8年で滅亡した。今川義元の嫡男の今川氏真はその後は江戸幕府高家として徳川家に仕えた。
前回の続きです。 senri-nchu.hatenablog.com
こんにちは、rekikakkunです。 静岡市の街の歴史について、 お城、史跡を訪ねながら まとめていけたらと思います。 少し調べてみますと、 室町の南北朝時代の頃、静岡の街は 「府中」と呼ばれてました。 そして戦国中期頃から「駿府」と 呼ばれる様になった様です。 今回は、お城の話が出始める南北朝時代、 南朝方の拠点だった安倍城と、 その安倍城に対峙する 北朝方の賎機山城について、 簡単にご紹介致しますー。 下のグーグルマップでは ①が安倍城、②が賎機山城です。 ③浅間神社、④臨済寺、⑤駿府城(今川館もここと想定されている) 足利尊氏が室町幕府を開き、建武3年1336年、 駿河の国は今川範国が…
【龍の書庫YouTubeチャンネル】を立ち上げたのは2021年12月14日、吉良義央公のご命日でした。 まだやるの?忠臣蔵・桶狭間【馬鹿のひとつ覚え】足利一門を叩きたくて仕方ないそうです※動画で語るのはこれが限界!続きはブログにて※ www.youtube.com どんなに国家予算・税金・受信料を注ぎ込まれようが、もう国民は踊らされない。 歴史を取り戻すー国民それぞれ自らが思い込みを疑い、【歴史】という事実を調べ、学ぶ新時代の幕開けを迎えました。 なんでもかんでも【センゴクサンエイケツ】、このネタさえやっておけばいいという浅はかさ。 「新説」「新しい人物像」と見出しさえ付ければイニシャルGホイ…
黒田基樹著『今川のおんな家長 寿桂尼』(平凡社、2021年)読了。 戦国大名今川家の当主代行を務め「おんな戦国大名」とも称される寿桂尼の生涯を、彼女の発給した文書や公家の日記から丹念に検討し、戦国大名家における「家」妻の地位を明らかにする1冊。 黒田基樹著『今川のおんな家長 寿桂尼』(平凡社) 概要と感想 本書の序盤は、寿桂尼周辺の家族関係の確認からはじまる。寿桂尼の実家中御門家の人々や、夫氏親の姉の嫁ぎ先である正親町三条家の人々など、氏親・寿桂尼の多くの縁者が駿府に下向しており、当時の駿府の繁栄がしのばれた。また、寿桂尼所出の子は、長女吉良義堯妻・長男氏輝・次女中御門宣綱妻・三女北条氏康妻・…
大石泰史著『城の政治戦略』(角川選書、2020年)読了。 戦国期今川氏の4つの城館を対象に、文献史学の立場から城館の政治・経済的役割を考える一冊。 概要と感想 今川氏領国であった駿河・遠江・三河の城館は、今川氏滅亡後に徳川・武田・北条氏の攻防の舞台となり、現在に残る遺構も三氏の攻防の歴史と結びつけられて考えられている。その背景には、今川氏時代の城に関する文書の僅少さもあり、これまで同時期の城館の役割・機能についての考察は深められていなかった。本書では駿河府中今川館・駿河国興国寺城・遠江国高天神城・三河国吉田城を取り上げ、残された文書から今川氏領国において各城が築かれた政治的背景や地理的条件を叙…
先日、静岡県の焼津市歴史民俗資料館にて行われている企画展「寺社からたどる戦国の焼津」を拝見しました。 企画展ポスター焼津市歴史民俗資料館(焼津市文化センター)本展は、戦国期の焼津市域を舞台に合戦を繰り広げた今川氏・武田氏・徳川氏の動向や、彼らと寺社との関係について、寺社に所蔵されている史料を中心に紹介する展示となっていました。展示は、今川氏→武田氏→徳川氏の流れで、戦国期焼津市とその周辺で起こった出来事について、古文書や寺社の縁起・寺社に伝わる伝承を紹介する形となっていました。今川氏・武田氏に関しては、焼津市の林叟院所蔵の市資料が比較的多くありました。林叟院は小川城(同市)の城主とされる長谷川…
先日、静岡県藤枝市郷土博物館・文学館にて行われている特別展「駿河の南北朝動乱展 今川氏、駿河支配のルーツをたどる」へ行きました。 特別展ポスター藤枝市郷土博物館・文学館 南北朝時代に駿河国内で行われた全国規模の合戦の過程や、それらの合戦での武功によって駿河守護となった今川氏が、同国の支配を確立していく様子を、古文書や城郭模型・民俗資料から見ていく展示となっていました。印象的だったのは、足利尊氏自画自賛の地蔵菩薩像や足利尊氏坐像など、尊氏が崇敬した静岡市清水区の清見寺に関する資料が多かったことでした。また鉄舟寺所蔵の旧久能寺文書や安養寺所蔵の満願寺文書など、寺社関係史料も多く、尊氏と直義の攻防を…
「今川氏ってどんな戦国大名?」 「今川氏の最盛期をつくりあげた今川義元とは?」 このページをご覧の皆さんはそんな疑問を持っているかもしれません。 今川氏は室町時代有数の名門で、足利将軍家に連なる吉良家の分家筋にあたります。 戦国時代には現在の静岡県にあたる駿河や遠江を支配し、愛知県東部にあたる三河に勢力を拡大しました。 今川氏の勢力を大きく拡大させたのが今川義元で、彼は「海道一の弓取り」の異名を持つ人物です。 軍師太原雪斎を補佐役とし、武田氏や北条氏と三国同盟を結び、後方の安全を確保してから勢力を西へと伸ばしました。 しかし、新興の戦国大名織田信長に桶狭間の戦いで敗れ討ち取られてしまいました。…
・「濫読漫筆」を始めるにあたって ・遠藤ゆり子「歴史手帖 秀吉の『全国統一』と東北」(『日本歴史』891、2022年) ・小林和幸「史料散歩 鎌田勝太郎と衆議院選挙」(『日本歴史』888、2022年) ・若槻剛史「歴史手帖 『栃木県人』であること」(『日本歴史』898、2023年) ・久保田昌希「歴史手帖 今川氏真の行方」(『日本歴史』894、2022年) ・清水克行「起請文にみる武蔵六所宮信仰」(府中市史編集委員会『新府中市史研究 武蔵府中を考える』1、2019年) ・竹井英文「城絵図の愉しみ」・荒木裕行「一九世紀の近世日本を取り巻く外圧と軍事技術革新」(『本郷』170、2024年) ・レジ…
歴史の表舞台には登場しない、女たちの視点から家康を描く 植松三十里さんの小説「家康を愛した女たち」は、徳川家康の人生に関わった女性たちの視点から物語を描いた作品です。 個性豊かな女性たちの視点 本書に登場するのは、家康の祖母である華陽院、母である於大の方、正室である築山殿、側室である西郷局、侍女であるお万の方など、家康の人生に重要な役割を果たした女性たちです。 家康の知られざる一面 これらの女性たちは、それぞれ異なる視点から家康を見つめ、彼の人間像を鮮やかに描き出していきます。 歴史小説ファンだけでなく、幅広い層におすすめ 本書は、歴史小説ファンはもちろんのこと、女性史や恋愛小説に興味がある人…
春を感じる散歩・今川家歴代の墓『観泉寺』🌺 今川家歴代の墓『観泉寺』🌺 東京都杉並区今川二丁目16番1号 位置 山号 宝珠山 宗派 曹洞宗 本尊 釈迦如来 創建年 慶長2年(1597年) 開基 今川氏真 正式名 宝珠山 観泉寺 文化財 今川氏累代墓(都旧跡) 観泉寺 - Wikipedia そろそろ バトンを渡す頃だね 芝生も苔も まだまだ 茶色だね ek0901.hatenablog.com 三寒四温で、徐々にね インフルエンザもコロナも もうしばらくの我慢ならいいけど ‼ ek0901.hatenablog.com
どうも、前回は三島市内の史跡巡りを終え、自転車で三島から駿東郡清水町、沼津市まで漕ぎ続けました。 senri-nchu.hatenablog.com
今川氏の客人に過ぎなかった北条早雲は相模(神奈川県)の任国2つを攻め落として乗っ取り、初の戦国大名となりました。 A mere guest of Imagawa Clan, Soun Hojo defeated and took over the 2 domains in Sagami (Kanagawa Prefecture) and became Japan’s first Warring States feudal lord. 油売りの子に過ぎなかった斎藤道三も美濃(岐阜県)の土岐氏やその家臣の長井氏、斎藤氏を追放して任国の乗っ取り(国盗り)に成功し、戦国大名となりました。 Succee…
戦国時代の出来事を年表にまとめた。 戦国時代 は 日本の歴史の時代区分の一つである。 前は 室町時代 後は 安土桃山時代 広義の室町時代に含まれる。 戦国時代の概要 戦国時代の文化 戦国時代の出来事 1449年 (文安6年) 足利 義政 8代将軍に 1455年 (享徳3年) 享徳の乱 1465年 (寛正5年) 後土御門天皇 即位 1467年 (応仁元年) 応仁の乱 1470年 (文明2年) 京極騒乱 1471年 (文明3年)山名豊之の殺害事件 1473年 (文明5年) 足利 義尚 9代将軍に 1479年 (文明11年) 毛利次郎の乱 1487年 (長享元年) 長享の乱 1487年 (長享元年)…
金の鯱で有名な名古屋城。天下普請で築かれた、徳川御三家・尾張藩の居城でした。惜しくも空襲で天守を始めとする建物は焼失しましたが、1959年(昭和34年)に天守・小天守・正門が、2018年(平成30年)には本丸御殿が復元されました。 「伊勢は津で持つ、津は伊勢で持つ、尾張名古屋は城で持つ」 日本100名城 2023年1月登城、2023年12月登城 満足度:★★★★★ 歴史 交通アクセス 縄張図 城歩き 西の丸・大手馬出 本丸・天守 搦手馬出 御深井(おふけ)丸 二の丸 感想 歴史 名古屋城は古くは那古野城と呼ばれ、大永年間(1521~1528年)に今川氏によって築かれました。それを織田信秀が奪い…
2024年3月2日 鳥羽山城の次にいきました。 二俣城や鳥羽山城はあるていど町に近い場所にありましたがこちらはほんとに山城って感じで初心者には山道が怖かったです。またどこに土塁があるのかとか曲輪があるのかとか初心者の自分にはわからなかったです。ほんとにただハイキングに来た感じでした。またリベンジします。 ポイントとしては巧みに配置された横堀で守られてる曲輪だそうです。 気田川流域と秋葉街道を抑える交通の要衝であったようだ。 もともと今川氏の傘下であったが桶狭間の戦いで今川の影響力が落ちると武田からの圧力で武田に従属。徳川家康は北遠の奪還を目指し犬居城攻め攻めを行うが急峻な地形に苦戦した。 そこ…
横地氏の居城で、金寿城ともいう。 横地氏は、八幡太郎源義家の庶子家永(家長)が祖といい、永承6年(1151)に安倍氏鎮定の命を帯びて奥州へ赴く父頼義に従った義家が、大雨で見付に滞在した際、在地の相良荘司藤原光頼の娘との間にできた子と伝わる。 その子は、長じて父から横地の地を拝領し、横地太郎と名乗った。以後、勝間田氏や戸塚氏など庶族を輩出しつつ、3代長宗は保元元年(1156)の保元の乱で源義朝に味方し、4代長重は頼朝の挙兵において義経の指揮下にあり、鎌倉時代には御家人となっている。 元弘元年(1331)からの元弘の乱では、8代長国は幕府方として笠置城攻めに参加しているが、その没後に跡を継いだ長則…
今回は川越城に行きました。 川越城とは、室町時代 関東の秩序が荒れ最前線であった武蔵河越に築城されました。 戦国時代 駿河今川氏に、仕えていた北条早雲が、瞬く間に伊豆 相模を制圧し、家督を継いだ氏綱が、武蔵制圧のため扇谷上杉方の江戸城・岩槻城を制圧し、 上杉朝興は河越に逃れて形勢を建て直し、岩槻城で攻防を繰り広げました。 上杉朝興が死んで上杉朝定が若くして家督を継ぐと、若年の上杉朝定が、家督相続したのを好機と見た氏綱は、それに乗じて一気に攻勢をかけ、河越城を奪取。これを世に言う河越の戦いという(天文6年西暦1537年) 他にも、河越夜戦の舞台として知られています。(天文10年西暦1541年) …
1.沼津も桜の季節へ 2.沼津市街から気軽に行けるお花見スポット5選 (1)日枝神社(山王公園) (2)高沢公園 (3)中央公園 (4)蛇松緑道 (5)千本浜公園 3.駅からふらっと行けるスポットに桜が点在! 1.沼津も桜の季節へ 2024年も早いもので4月を迎えました。4月といえば新年度がスタートする月であり、多くの人が新天地へのスタートを切ることになるのかもしれません。入学式なんて懐かしいですね。 そんな季節の楽しみといえば「桜」でしょうか。桜を背景にして記念撮影をしたり、花見を楽しんだりする人も多いでしょう。先週末(3月30日・31日)は異常な暑さだったとはいえ、春本番の暖かさで出かける…
鎌倉を目指したものの、伊豆に留まった鎌倉公方足利政知が造営した御所。ホリゴエと読み、御所跡と伝わっていることから、正確には伝堀越御所跡である。 室町時代の関東地方は、尊氏の四男基氏から始まる鎌倉公方の差配地となっており、この伊豆国も鎌倉公方の管轄国であった。しかし、鎌倉公方は、尊氏直系の子孫という血筋的な理由に加え、かなりの権限が認められていたことから、次第に自立を志向するようになっていく。これに対し、有力大名を次々と弱体化させ、幕府の基盤を確立した3代将軍義満は、自立的な鎌倉公方を掣肘し、関東への影響力を強めたいと考えるようになった。 この対立は、双方の代を重ねるごとに深まっていき、やがて4…
朝、善福寺川沿いを走ってきました。何だか風邪気味なのか走ることが修行のようでした。9時10分頃、嫁さんの友達から電話があり「与那国に津波が来る」とのことで、急いでテレビをつけたら馴染の景色が映り、何事もないようでした。震度4は島では経験がないので、みんなビックリしたろうな、などと見ていました。兄・従妹・友達から電話やメールを頂きました。 「日本史1200人」470 今川義元(ヨシモト;1519〜1560) 駿河国・戦国大名。今川氏親の5男で4歳で出家したが、兄の氏輝が夭逝したため18歳で家督を継いだ。当時は、東に北条氏綱、北に武田信玄、西に織田信秀がおり、厳しい状況であった。そこで、信玄に追放…
城跡の入口に建つ深沢城址碑 深沢城としては、今川氏親の築城が最初となるのだが、それ以前に葛山氏の庶流深沢氏の居館があったと推定されている。 葛山氏は、鎌倉期から駿東に御家人として勢力を張っており、城から南へ10kmほどの葛山付近を本拠としていた。室町時代は将軍直属の奉公衆で、隣接する今川氏の強大化により次第に今川家臣化して行ったのだが、全盛期にはこの地に一族を分出するだけの力があったのだろう。 深沢城の築城時期は不明だが、氏親の治世、つまり実質的に家督を継承した15世紀末から死没した大永6年(1526)までの間であるのは間違いない。具体的には、後の北条早雲である伊勢盛時と協力し、11代将軍義澄…
花倉の読みとしては、日本郵政の地名データベースから引くとハナグラとなっているため、城名も濁るのが正解かと思われる。ただし、当時は葉梨城や葉梨の城と呼ばれていた。 築城年代は不明だが、今川氏2代基氏の五男で、駿河と遠江の守護に任じられた範国へ葉梨荘が与えられたのが、この地と今川氏の関わりの最初とされ、それは建武4年(1337)ともその翌年ともいう。 範国の駿河守護職就任にも同じくこの両年の説があり、守護就任に伴って宛がわれたものだろうか。ただ、建武5年説に関しては、その正月に起こった美濃国青野原での合戦の功で宛がわれた可能性も考えられる。 いずれにせよ、これに伴って葉梨には地頭代として松井助宗が…