関東の戦国大名。関東管領。 1546年、反北条の扇谷上杉(上杉朝定)、古河公方(足利晴氏)と共に8万の大群を率い河越城を包囲するも、北条氏康に奇襲され大敗を喫す(河越夜戦)。 また信濃でも武田家に敗れ、1551年北条家に攻められ上野を脱出し越後へ。
1561年、長尾景虎に上杉姓と「政」の字と関東管領職を譲った。
1578年、上杉謙信が死去し御館の乱が勃発。上杉景虎*1側についたため上杉景勝に殺された。
*1:謙信の養子で北条氏康の子
天と地と 中/海音寺潮五郎【3000円以上送料無料】価格: 880 円楽天で詳細を見る 【あらすじ】 越後の守護代であった長尾為景は徹底的な現実主義者で、越後国の支配を壟断していた守護の上杉房能を自害に追い込む。更に敵討ちに侵攻してきた弟で関東管領の上杉顕定を返り討ちにして、下克上を体現させた猛将。そんな中62歳で美貌と噂の娘、袈裟が輿入れしてきた。年齢は20歳で年の差42歳。噂以上に美しく優しく尽くす性格には満足していたが、子が宿ると「早すぎる」と為景に疑念が沸く。そして生まれた四男の虎千代に対して父親の愛情を見せることはなく、母も早くに亡くなってしまう。残された虎千代は寡黙で、周囲からは何…
・ ・ ・ 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。 ・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・ 2024年4月9日 YAHOO!JAPANニュース JBpress「「男色」が広まったのは戦場からではない?今日的な同性愛とは異なる、戦国時代の男色にありがちな誤解 『豊臣勲功記』よち、本能寺で討ち死にする森蘭丸 (歴史家:乃至政彦) ■ 男色に関する誤解 戦国時代の男色(『日葡辞書』に「Nanxocu.ナンショク(男色) 悪い,口にすべからざる罪悪.」とあるように、「なんしょく」が正しい発音。「だんしょく」とは読まない)については、今も多くの誤解がまかり通っている。この時代の武士…
北条早雲こと、伊勢盛時が本拠とした城。 興国寺城の築城時期は不明だが、早雲が今川家の家督争いを収めた功で興国寺城に入城した長享元年(1487)かその翌年までには築城されていたとされるほか、早雲自身が入部の際に築いたという説もある。ただ、早雲の興国寺城入城自体が確かな史料で確認できず、別の城だったという説もあるようだ。 早雲の出自である伊勢氏は、伊勢平氏の末流である俊継が伊勢守であったことから鎌倉末期に伊勢氏を称したという。だが、滝山寺縁起には伊勢前司藤原俊継とあるほか、更に遡れば伊勢朝臣という姓で伊勢国造の一族も官人として見えることから、平姓というのにはやや疑問が残る上、鎌倉時代の動向も不詳で…
写真はイメージです 「義」の武将といわれる上杉謙信は、敵に塩を送ったことで知られる。 永禄一〇年(1567年)ごろ、甲斐の武田信玄が駿河の今川氏真から塩留めにあった。『上杉家御年譜』によると、謙信は、海のない甲斐国の「万民の辛酸尋常にあるべからず。手段もっと浅薄なり」と氏真のその政策を批判し、逆に家臣を召して、敵の信玄へ「塩を送れ」と命じた。結果、敵国の民衆は謙信を「邪道なき大将」と称し奉ったという。 しかし、『上杉家御年譜』は、米沢藩(上杉家)の藩医で儒学者でもある人物が江戸時代の天和三年(1683年)に編纂したとされ、事件のあった永禄一〇年から一一〇余年たってから書かれた史料。当時は江戸幕…
朝、海沿いを走ってきました。明日が嫁さんの合格発表なので、念入りに合格を祈ってきました。太陽がしっかり顔を出してくれました。 「日本史1200人」446 上杉謙信(1530〜1578) 戦国武将、関東管領、幼名・虎千代、還俗後・景虎、出家後・謙信。父の死後、兄の晴景が守護代を継いだが病弱のため、虎千代が還俗して家督を継いだ。1552年、北条氏康に攻められた関東管領・上杉憲政を助け、北条氏との対立が始まった。武田信玄とは川中島で5回戦った。景虎は朝廷と室町幕府に忠実であるという功績により、関東管領職と上杉の姓を受け継いだ。1573年、信玄の訃報を聞くと号泣して「惜しい英雄を亡くした」と嘆いた。1…
朝、海沿いを走ってきました。足のつりは、マッサージ器の使用と、布団の下にマットを敷いたことでだいぶ楽になりました。 「日本史1200人」434 長野業正(ナリマサ;1491〜1561) 関東管領山内上杉家の家臣、長野信濃守、上野国箕輪城主、戦国時代の武将。上杉憲政が北条氏康に大敗した河越夜戦にも参戦した。江戸以降の軍記物では、1557年から甲斐国の武田信玄が侵攻を開始すると、業正は2万余の大軍で迎え撃ち、籠城して守りを固めて遂に武田方の侵攻を挫き、その後も防衛戦を指揮し、6次にわたる侵攻を全て撃退したという。主君の憲政が氏康に敗れて上野を追われた後も、上杉家に義理を立て上野国の支配を守った忠臣…
東急東横線に「新丸子」という駅があります。 でも「ちびまる子ちゃん」とは無関係 ^o^ 今回は平安時代の「マスオ婚」のお話です! 何それ? サザエさんの夫マスオさんは磯野家の婿ですが・・・ 苗字はフグ田で生まれた子供はフグ田タラオ・・・ 藤原道長も源雅信の家に婿入りしますが、息子は藤原頼通! 夫婦が妻の家で同居する形態が「婿入婚」 夫が妻の家を訪ねる形態が「通い婚」 妻が夫の家に同居する「嫁入婚」が増えるのは平安後期以降。 八十神のパシリだったオオナムチが大国主神になれたのは? スサノオの試験に合格して娘婿になったから! アメノウズメは猿田彦の嫁になり猿女君に改名! もしかして・・・欧米人? …
朝、海沿いを走ってきました。嫁さんが明日東京に行くことが決まったので昨日からバタバタとしています。 「日本史1200人」424 上杉憲政(ノリマサ;1523〜1579) 山内上杉家15代当主、戦国大名、関東管領。父・憲房が死去した時、まだ3歳と幼少のため、父の養子である上杉憲寛が家督を継いだ。しかし8歳の時に、憲政方が憲寛方に勝利し、家督を継いで関東管領となった。以後、北条氏と戦うが相次いで敗れ、有力な家臣を失い、奢侈・放縦な政治で民心も失って、越後の長尾景虎(上杉謙信)を頼った。1560年、景虎に擁されて関東に出陣し、帰途、鶴岡八幡宮で上杉の家名を景虎に譲り剃髪した。1578年に謙信が病没す…
2004年3月10日第1刷 2009年8月15日第9刷 令和三年10月 裏表紙「領土拡張に積極的な武田晴信と北信・川中島で闘った景虎は初めて敗れた。雪辱に燃える景虎の許へ房州の里見氏から北条氏康の横暴の訴えが届く。小田原城を包囲した景虎は関東管領に就任し、上杉の家督も譲られ上杉政虎と名を改めた。そして永禄四(1561)年に、上杉・武田両軍は雌雄を決すべく川中島で一大決戦を企てることに。」 景虎は関白を伴い国許へ帰る約束をしたものの、即位式が終ってからに変更した。帰国後、景虎は将軍によって関東管領職を継ぐのを許されたことを発表した。晴信の唆しに応じなくするためであった。乃美がどこにも嫁かぬ姫君と…
令和元年10月 晴景が景虎を討つために栃尾に兵を向けた。晴景が最も頼みとした房景は晴景の臆病風に吹かれた態度に腹を立てて引き上げてしまった。戦意を喪失した晴景軍に鉄砲を放ち、勝鬨を挙げるだけで晴景は疾駆し去った。晴景は敗走に次ぐ敗走を続けた。定行は上杉定美を訪ねて守護代を景虎に就任させる相談をした。晴景は藤紫が生きているのを知って泣いて喜んだ。 夢から目が醒めた晴景は上杉定美が訪ねてきたのを知った。定美は晴景を隠居させて守護代を景虎に譲ることを説得した。藤紫を連れて逃げた久助が番所頭に捕まり、魚津城主鈴木大和守に差し出された。二十歳となった景虎は景虎は守護職に就き、越後の国主となった。景虎は単…
朝、海沿いを走ってきました。今日は雨の予報でしたが、下着などを洗濯しました。予想通りに降ってきました。 「日本史1200人」418 北条氏康(1515〜1571) 後北条氏第3代当主、戦国大名。北条氏綱の嫡男。15歳で元服し氏康と名乗ると、上杉朝興との戦いで大勝するなど、父氏綱の躍進を支えた。父の死により今川義元や古河公方足利晴氏を敵に危機的な状況に陥るが、上杉・公方連合軍に夜襲を仕掛け壊滅させ、北条氏躍進のきっかけを作った。その後は上杉憲政を関東から追いやって上野国を完全に併合し、かつてないほどの領土として、1559年に嫡男・氏政に家督を譲った。当主として19年間、隠居後も第4代当主・氏政と…
信長の野望・新生PK、前回はじっくりと浪岡家で攻略したので、今回はサクッと強い人で攻略しようと思って長尾景虎(上杉謙信)さんでプレイしてみたところ、政略画面では「義の将」特性が発動しまくり合戦画面では「越後の龍」特性が発動しまくりで脳内から変な麻薬が分泌される快感がパなくてかんたんしました。 信長の野望・新生PK「天下布武 浪岡顕範攻略感想 浪岡伝・鎮守将軍の旗を称えよ(※武将所属替あり)」 - 肝胆ブログ 信長の野望・新生PK「三方ヶ原の戦い 武田信玄・勝頼攻略感想 今作の武田家威風プレイは楽しい」 - 肝胆ブログ 信長の野望・新生PK「手取川の戦い 毛利輝元攻略感想 国替すれば織田家相手も…
現地にある春日山城鳥瞰図 あの上杉謙信の居城として有名な城で、五大山城のひとつ。 謙信は、もともとは越後国守護代を務めていた越後長尾氏の出である。その長尾氏は、坂東八平氏に数えられる桓武平氏の裔、有名な三浦氏や鎌倉党と同族であり、その祖は景弘や景行という。史料上では、源頼朝の挙兵戦である治承4年(1180)の石橋山の合戦で、平氏方であった大庭景親の配下として、長尾定景と為宗の兄弟が見える。 その後、長尾氏は惣領筋である三浦氏の家臣となっていたようだが、三浦一族は、鎌倉幕府成立後に執権北条氏と対立して宝治元年(1247)の宝治合戦で滅び、その家臣であった長尾家当主の景茂も討死したため、以後の長尾…
上杉謙信を紹介します。 転載開始 https://joetsukankonavi.jp/kenshinkousai/chronology/・1530年1月21日、越後守護代長尾為景(ながおためかげ)の末子として、春日山城で誕生。・1536年、春日山城下の林泉寺に入り、名僧天室光育(てんしつこういく)禅師から厳しい禅の修業と文武の道を学んだ。 深い学識や厚い信仰心はこのとき培われたといわれている。 8月、謙信の兄・晴景(はるかげ)が家督を相続。また、この年の12月に父為景が病死。・1544年、近隣の武将たちが謙信を若輩とあなどり、攻撃を仕掛けられるが、栃尾城代本庄氏、三条城代山吉氏、栖吉城主長尾…
学習まんが 少年少女日本の歴史10 戦国大名の争い ―戦国時代― 作者:あおむら純 小学館 Amazon わしの望みは、尾張一国などではないぞ。 1495年、大森藤頼を敗り、北条早雲が小田原城を落とす。 北条早雲、元の名は伊勢新九郎。薬をほどこし、年貢を軽くし、民衆から人気も高い。 毛利元就、異母弟の元綱が尼子氏と手を組んだので、大内氏と手を組むことに。 長男毛利隆元(大内氏へ人質)、次男元春(吉川家に養子)、隆景(小早川家に養子)。 大内氏が陶晴賢(すえはるかた)に敗れ、あとは一気に尼子を攻めるだけの毛利。 石見銀山を手に入れた元就、財源ゲットで尼子氏も倒す。 1543年、種子島に鉄砲伝来。…
こんにちはー、rekikakkunです。 静岡県東部(駿東)のお城ご紹介も 今回最後となりました。(多分😓) 戦国時代、3国の攻防の舞台となった駿東の 歴史をもう一度整理してみます。 またですが3家の本拠地を①から③で示します。 ①駿府城(今川氏居城、静岡県) ②小田原城(北条氏居城、神奈川県) ③躑躅ケ崎館(武田氏居城、山梨県) この3国の駿東での攻防を下表にまとめてみました。 多少ズレもありますが、おおよそで見て下さい。 (1)1493年北条早雲(初代)の伊豆討ち入り により戦国時代が幕開けしたとも言われてます。 当時駿河国は守護の今川家が領有していました。 (2)1537年 第1次河東一…