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三遊亭円生

(アート)
さんゆうていえんしょう

落語家。

初代(堂前の師匠)

生年月日・没年月日、ともに不明。橘家松五郎とも称されている。

二代目(よつもくの円生)

文化3年(1806年)生まれ。本名は尾形清治郎。*1文久2年8月12日死去。享年56歳。
三升家しげ次→竹林亭虎生→三遊亭花生→橘家円蔵(初代)を経て、天保12年頃、二代目烏亭焉馬の後ろ盾を得た形で二代目円生を襲名。
頭部の形が木魚に似ている事から「よつもくの円生」と呼ばれた。
怪談噺や人情噺が得意で、弟子の三遊亭円朝の創作落語も手がけている。

三代目(のしんの円生)

天保10年(1839年)生まれ。本名は野本新兵衛。*2明治14年(1881年)8月16日、43歳の若さで死去。
舞台役者を経て4代目桂文治に弟子入りし桂万治を名のるも、後に三遊亭円朝門下に移り、初代三遊亭円楽を名乗る。
一説によれば、明治5年頃に三代目を襲名したとされているが、実際はもっと早い時期に襲名したのではないかとも言われている。
初代円馬・初代円橘・三代目円喬*3と並ぶ「円朝四天王」の一人。

四代目

弘化8年(1846年)8月、東京生まれ。本名は立岩勝次郎。明治37年(1904年)1月27日死去。享年59歳。
瀧川鯉朝→橘家小円太(二代目)→(一時期廃業の後2年後に復帰)→三遊亭円喬(三代目)を経て、明治15年(1884年)に四代目を襲名。
師匠である三遊亭円朝譲りの人情噺や廓噺を得意とした。

五代目(デブの円生)

明治17年(1884年)10月、東京生まれ。本名は村田源治。昭和15年(1940年)1月15日死去。享年55歳。
橘家二三蔵→橘家小円蔵→三遊亭円窓(三代目)→橘家円蔵(五代目)を経て、1925年(大正14年)に五代目を襲名。
落語家としては初めて、1915年(大正4年)に渡米し興行を行なった。六代目円生は義理の息子に当たる。*4
「デブの円生」と呼ばれていたのは、体重が約85kgもある巨体であったため。

六代目(柏木の円生)

明治33年(1900年)9月3日、大阪生れ。本名は山崎松尾。
子供時代からの嘲家で芸域は広く、落し嘲のほか長編人情嘲・ 音曲嘲・芝居嘲などの芸域の広さをほこり、落語三遊協会を結成するなど最晩年まで活躍を続けた。

六代目円生の略歴

明治33年(1900)、9月3日、大阪にて出生
明治37年、生母のさだ(義太夫の三味線)と供に東京に転居
明治38年、四代目橘家圓蔵の身内に入り。豊竹豆仮名太夫の名で子供義太夫として出演を開始
明治40年、母親さだが圓蔵門下の橘家二三蔵(のちの五代目三遊亭圓生)と結婚
明治42年、豆仮名太夫改め橘家圓童となり子供落語家に転身
大正3年(1914)、圓童改め橘家小圓蔵となる(義父・二三蔵は小圓蔵を経て三遊亭圓窓(三代目)を襲名)
大正9年、小圓蔵改め橘家圓好となり真打に昇進
大正11年、師・四代目圓蔵死去。義父の圓窓、五代目圓蔵を襲名。圓好は四代目三遊亭圓窓を襲名
大正14年、義父・圓蔵、亡き師の師匠の大名跡をつぎ三遊亭圓生(五代目)襲名。圓窓は六代目橘家圓蔵を襲名
社会情勢が不安定になるなか人気は低迷し不遇の時代を過ごす
昭和15年、義父・五代目圓生死去
昭和16年、六代目三遊亭圓生襲名
昭和20年、旧満州へ渡りほどなく終戦を迎える。帰国できぬまま大連で過ごす。
昭和22年、帰国、寄席に復帰。『妾馬』の成功で”涙あり笑いあり”の本領を覚える
昭和28年、ラジオ東京(現TBS)の専属となり人情噺、大ネタ落語の第一人者として名声を得る
昭和35年、「圓生全集」を刊行、『首行燈』で芸術祭文部大臣賞受賞
昭和40年、落語協会会長に就任
昭和47年、落語協会会長を退任
昭和48年、「三遊亭圓生人情噺集成」の録音に着手
昭和49年、「圓生百席」の録音に着手
昭和52年、録音完了
昭和53年、一門を引き連れ落語協会を脱退。落語三遊協会を設立
昭和54年(1979)、9月3日、仕事先の習志野市で急逝

円生といえばこの噺(順不同)

包丁、牡丹灯篭、ちきり伊勢屋、お若伊の助、花筏、御神酒徳利、猫定、百川、死神、なめる、お化け長屋、おかふい、盃の殿様、ねずみ穴、転宅、一人酒盛り、鰍沢、三十石、掛取万歳 、、などなどなど。

*1:清次郎や盤蔵と表記している文献もあり

*2:嶋岡新兵衛としている文献もあり

*3:後の四代目円生

*4:六代目の実母が二三蔵時代に五代目と結婚したため

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