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ワーテルローの戦い

(一般)
わーてるろーのたたかい

Battle of Waterloo(英)

ナポレオン最後の戦い。この戦いで敗北したことでナポレオンの百日天下が終わり、革命戦争以来四半世紀に渡って続いた戦乱を終わらせた。

  • 日時:1815年6月18日
  • 場所:ブリュッセルの南方約15kmのワーテルロー、の隣村
  • 参加陣営:フランス軍vsイギリス・プロイセン連合軍
  • 参加兵力
    • フランス軍12万4千(ナポレオン指揮)
    • イギリス軍6万8千(ウェリントン指揮)
    • プロイセン軍4万5千(ブリュッヘル指揮)

はじまり

「ナポレオン、エルバ島を脱出」この報は欧州に激震をもたらした。1815年2月、南仏に上陸したナポレオンは、捕縛のために現れたフランス軍部隊を片っ端からそのカリスマでもって味方としてしまい、3月19日にパリに入城。帝位に復帰する。
もちろん欧州各国(ウィーン会議開催中)は戦乱はこりごりだとは思っていた*1が、ナポレオンを倒さないと話が始まらないので動員を開始する。連合軍(対仏大同盟軍)は総兵力70万を数え、一方フランス軍は20万程を集めるのが精一杯だった。まともにやってもナポレオンに勝ち目はない。
だが、連合軍は各地に分散しており、例えばバルクライ率いるロシア軍は遠くドイツにいた。ナポレオンは、先手を取って各個撃破を行えば十分な勝算はあると踏んだ。

リニー、カトル=ブラ

ナポレオンが目標としたのはベルギー方面だった。ブリュッセルにはウェリントン率いるイギリス軍10万*2が、ブリュッセルの南東60kmのナミュールにはプロイセン軍12万(司令官ブリュッヘル、参謀長グナイゼナウ)がいた。

6月12日、パリを出発したナポレオン率いる北方軍(l'Armee du Nord)は北上。
6月15日にはプロイセン軍の前衛部隊を蹴散らしてシャルルロワ*3へ入る。プロイセン軍・英軍ともこれを迎撃するべく出動。ナポレオンは軍を大きく3つに分け、ネイ元帥の左翼軍をブリュッセル方面のカトル・ブラ(キャトル・ブラ)へ向かわせ、グルーシー元帥の右翼軍はフルーリュスへ送り、自身はシャルルロワへ残り、戦機に応じていずれにも合力できる体勢をとった。
プロイセン軍が集結しているのを見たナポレオンは、これを撃破するべくグルーシーに合流する。

6月16日、リニーとカトル・ブラでそれぞれ会戦が行われた。
リニーでナポレオンはプロイセン軍を攻撃、近衛軍団までも投入して勝利する。ただし、プロイセン軍に決定的な打撃を与えるほどではなかった*4

一方カトル・ブラで戦っていたネイ率いる左翼軍は、当初こそ出遅れた英軍を圧倒していたが、手間取っている間にウェリントンが兵力を集めてしまい、攻めあぐむこととなる。だが、リニーでプロイセン軍が破れた事を知ったウェリントンは、包囲を恐れて撤退を選択、ラ・ベル・アリアンスへと後退した。

前日まで

プロイセン軍の戦闘力をひとまず奪った判断したナポレオンは、グルーシーに2個軍団を与えて追撃を命じた。ナポレオンは(損害を受けた)プロイセン軍が司令部のあるナミュール方向に動くと思っていたので、グルーシーの兵力だけでプロイセン軍とイギリス軍の合流を阻止するには十分だと判断していた。プロイセン軍が来ないのであれば、英軍を決戦で破るだけでいい。
だが、実際にはプロイセン軍は英軍に合力するべくワーヴル方向へと撤退しようとしていた。また、1個軍団がリニーの会戦には間に合っておらず、本当のプロイセン軍の戦力はナポレオンが考えていたよりも大きなものだった。ここでの錯誤が後々大きな影響をもたらすことになる。
ともかく、ナポレオンと主力はネイと合流、ブリュッセル方面にいる英軍を叩くべく行動を開始した。

雨のため、会戦翌日の6月17日の行軍は両軍とも不調に終わる。のみならず、伝令の動きも悪く、特にフランス側で情報が錯綜する原因となった。
石橋を叩いて渡る性格のウェリントンはさらに後退して、英軍をモン・サン・ジャンの丘に布陣させた。フランス軍の砲撃に対抗するために、稜線による遮蔽効果を利用するためである*5
ウェリントンはブリュッセルへの交通線を、つまり英本土への交通線を確保した上で、フランス軍を迎撃しようとしていた。持ちこたえていればいずれはプロイセン軍がやってくるはずだし、駄目でも後退して再戦を挑めばよいというわけである*6
ナポレオンもここで決着を付けるべく部隊を進めた。戦力を決戦場に集結させるべく、グルーシーの部隊にも命令を出した。だが、雨のため伝令の動きが阻害され、グルーシーの手元に命令が届くのは大幅に遅れることになる。

NAW

1815年6月18日、両軍あわせて15万を超える大兵力がワーテルローの南方3kmの平原に集結した。
昨日の雨の影響で地面が泥濘と化していたためフランス軍の集結は遅れていた*7が、11時半頃、会戦が始まった。
まずフランス軍左翼が連合軍右翼の重点であるウーグモン(ウゴモン)の城館を攻撃する。これはナポレオン得意の陽動作戦で、相手の予備兵力を誘引するのが目的だった。だが、戦いのモメンタムという魔物が作用、陽動のはずがフランス第二軍団がまるまる参加する大攻撃に変わってしまった。それでも、ウーグモンを守備するイギリス近衛兵は頑強に抵抗を続け、陥落を許さない。
ウェリントンがこの方面に増援する気配がないのを見抜いたナポレオンは、今度は中央突破にかかる。ここでの焦点はラ・エ・サンテの農場である。だが、こちらを守備するドイツ兵たちもやはり激しい抵抗を続け、やはり容易に落ちる様子はなかった。

ワーヴル

そのころ、ナポレオンが来援を期待していたグルーシーの部隊は、(ナミュールとブリュッセルの中間付近に位置する)ワーヴルにいた。
彼の部隊の本来の任務は、ナポレオン率いる主力とウェリントン率いる英軍がブリュッセル前面で行う決戦に、プロイセン軍がちょっかいを出せないようにすることだった。
彼はナポレオンの命令に従ってワーヴルのプロイセン軍を攻撃しようとしていたが、実際にはプロイセン軍の主力はすでに出発しており、後衛部隊が残っているだけだった。つまりこの時点で本来の任務に失敗していたことになる。
ワーテルロー方面で戦闘が起きていることは砲声などから理解していたし、そちらに向かうように進言する者もいたとされるが、グルーシーは事前計画通りにワーヴルを攻撃することを選択した。

騎兵突撃

午後に入り、フランス軍の騎兵が集結しており、砲兵も前進してきていることに危機を感じたので、ウェリントンは砲撃を避けるために全軍に百歩後退を命じた*8。一方、稜線の向こうに英軍主力が後退していくのを見たネイは、これを全軍退却と誤認した*9
ネイが騎兵旅団に突撃を命じると、近隣の騎兵がこれを総突撃の命令と誤認して次々に突撃に参加、5000騎が参加する一大突撃になってしまう。英歩兵は全部で13個の方陣*10を形成してこれを迎え撃つ。
フランス騎兵の突撃は砲兵の支援も受けられず、歩兵も追従していない騎兵単独の攻撃になってしまう。だが、一度始まった攻撃は止められない。ナポレオンはやむなく予備の騎兵も投入、全騎兵1万の参加する一大突撃になった。繰り返し行われた騎兵突撃によって、英軍の方陣のうち7個までが破壊されたが、残りは英軍騎兵の支援を受け、辛くも持ちこたえる。結局この突撃は失敗に終わった。

Thin Red Line

午後四時頃、プロイセン軍が戦場に続々と到着し始める。ナポレオンは予備の軍団を派遣してこれを食い止める。プロイセン軍は英軍と直接合同できたわけではなかったが、それでもフランス軍右翼にとって重大な脅威だった。退路をも圧迫されつつあったため、ナポレオンはついには若年親衛隊までも投入せざるを得なかった。

一方、騎兵突撃の失敗後に英軍への攻撃を再興したネイは、午後六時、ラ・エ・サンテを陥落させる。ナポレオンはこれで勝ったと確信。ウェリントンも重圧に負けて「ブリュッヒャーか、夜か、死か」と言ってしまう*11。つまりブリュッヘル率いるプロイセン軍が来れば勝ち、夜が来れば引き分け、でなければ敗北ということである。

プロイセン軍の脅威も増していたが、ナポレオンはついに決断を下し、最後まで温存していた切り札の老親衛隊(ヴィエイユ・ギャルド)を投入した*12。この不敗の部隊を、英近衛連隊が迎え撃つ。
英近衛兵たちは稜線の反対側の麦畑に伏せて横隊を維持して親衛隊の接近を待ち受けていた。彼我の距離が50歩に達したとき、近衛兵たちは立ち上がって親衛隊に斉射を浴びせた*13
近衛部隊の迎撃によって老親衛隊の攻撃は失敗、再度の攻撃も阻止され、ついに後退する。全欧州に不敗を誇った親衛隊の攻撃失敗は、フランス軍の士気に破滅的な影響をもたらした。
フランス軍右翼はブリュッヘル率いるプロイセン軍主力の攻撃によってついに崩壊、さらに英軍も反撃に移る。午後九時頃*14、フランス軍はついに戦場を放棄、敗走する。

プロイセン軍参謀長のグナイゼナウは強行軍と会戦で疲弊した部隊を叱咤して、自ら夜通しの追撃を指揮、結果としてフランス軍は完全に崩壊した。
4日後、ナポレオンは退位。フランス革命から続いた動乱の時代はついに終わることになった。

*1:革命戦争以来25年も戦い続けたら普通そう思います

*2:ただし、英軍以外のオランダやドイツの領邦などからきた兵力が多く、しばしば「英連合軍」等と表記される

*3:Charleroi ブリュッセルの南方50kmでナミュールの西方30kmに位置する都市。つまりこの三都市の位置関係は概ね直角三角形になる

*4:この日、本来ネイの指揮下にあったはずのデルロンの第一軍団は、フランス軍の指揮系統の混乱からカトル・ブラとリニーの間を右往左往するだけで遊兵となっており、彼らが戦闘に参加できていれば戦況は変わっていたとする見解も多い

*5:この時代の大砲はほぼすべて直接照準で発射されるため、見通し範囲外の砲撃はまず無理といってよい。

*6:ウェリントンの事前計画ではさらに北、ブリュッセルの南方15kmに位置するワーテルローでフランス軍を迎撃することになっていたので、予定よりも土地に余裕のある状態で防戦に入れたとも言える。

*7:一般には、砲兵が動けるように地面が乾くのを待って攻撃開始が遅れたとか、ナポレオンの体調が悪かった(これは事実)ために逡巡して攻撃開始が遅れたとも言われている。

*8:ということになっている。

*9:ということになっている。

*10:20個説もあり

*11:本当は"Give me Blücher or give me night!"と言ったらしい。

*12:実際にこの攻撃を行ったのは、老親衛隊でなく壮年親衛隊だったらしい。

*13:このときにウェリントンが「今だ、メイトランド、君の出番だ」と萌え台詞を言ったことになっているが、本当は「立て、近衛兵、撃て("Up, Guards! Make ready!")」と味も素っ気もない号令しか言ってないらしい。

*14:緯度が高く、6月なので日没が遅かった

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