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ミュンヘン一揆

(一般)
みゅんへんいっき

ミュンヘン一揆.別名ヒトラー一揆
1923年11月8〜9日にヒトラーがワイマール共和国打倒をめざして南ドイツのミュンヘンで起こし失敗した一揆(クーデタ).

その背景

第一次世界大戦敗北で成立したワイマール共和国は,政治的,経済的にも安定せず,1923年その混乱は頂点に達する.同年1月フランス,ベルギー両国はドイツの賠償支払不履行を理由にドイツの重工業地帯のルール地方に軍隊を派遣.これに対してドイツ,クノー政府はいわゆる「受動的抵抗」をし,ルール闘争が起こる.ドイツは占領軍の賠償取り立てへの協力を拒み,右翼団体は占領軍へゲリラ的抵抗を行う.この中でルール占領はドイツ経済疲幣を起こし,インフレが破局的に進行する.
ついにドイツの抵抗は継続できずクノー政府に代わったシュトレーゼマン政府は同年9月一方的に「受動的抵抗」中止を宣言.これを契機に左右両翼から共和国政府打倒の動きが活発化する.ザクセンチューリンゲン両州では共産党革命の準備が進められ,バイエルン州は右翼政治家カールが州総督となり,ベルリン中央政府から離反する動きを示す.
これはナチス*1などバイエルン州の右翼勢力を活気づけ,ベルリン政府打倒への直接行動計画が推し進めらる.ヒトラーは右翼の国防団体などとともに共同戦線を結成して前年のムッソリーニのローマ進軍のようにベルリン進攻の機会を伺っていた.

一揆

1923年11月8日夕にミュンヘンのビアホール,ビュルガーブロイケラーでカールら右翼有力政治家の集会が開催されたとき,ヒトラーは武装した突撃隊(SA)に会場を包囲させた.そして自ら会場に乗り込んにピストルを威嚇発射し,カールやロッソウ*2らに「国民革命」計画*3の同意をさせた.ところが会場脱出に成功したカールが国防軍,バイエルン警察に一揆鎮圧を命じたため,翌日午前,ビュルガブロイケラーから市中へ向けて行進するヒトラーらのデモ列に警察が発砲,死者13人およびヒトラーを含む多数の負傷者を出し,一揆は失敗.ヒトラーはその場を逃れるも2日後に逮捕.他の首謀者とともに裁判にかけられ1924年4月,国家反逆罪で5年の禁固刑を宣告される*4

一揆失敗の裏には君主主義的,バイエルン中心主義的な右翼(カールら)とドイツ全体の制覇をめざす新興右翼(ヒトラーなど)との路線の相違があった.この後,ヒトラー自身はクーデタによる権力奪取から議会で多数を獲得して権力奪取する「合法路線」への転換を決意し,後年それは実現したのである.この点でミュンヘン一揆はナチズム運動史の重要な転換点となった.

*1:当時ナチスはミュンヘン中心に5万以上の党員を擁する勢力に成長

*2:バイエルン州国防軍総司令官

*3:ヒトラーの「国民革命」はベルリン進軍によって共和国政府を倒しルーデンドルフを最高指導者,自らをその下に首班とする“国民政府”を樹立するもの

*4:ただし同年末には釈放される

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