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マリウス

(社会)
まりうす

Gaius Marius 
古代ローマの政治家・将軍。内乱期の民衆派の頭目。

概略

平民の出と言われる。
紀元前119年に護民官となり、元老院の議席を得る。また、ユリウス氏族のユリア(カエサルの伯母)と結婚している、がやっぱり平民よりの政治的立場を維持。
ユグルタ戦争に当初は執政官メテルスの副官として、後には自ら戦争の早期解決を訴えて執政官に当選して総司令官として参加。
マリウスは、従来の共和制理念*1の原則を覆す志願兵(職業兵)の軍隊を編成、参謀スッラの補佐もあって戦争を終わらせる。続いて北方のゲルマン人の侵入を解決すべく執政官に就任(紀元前104年)。紀元前102年〜紀元前101年にかけてテウトニ族とキンブリ族を相次いで破った。
マリウスは無産市民*2を軍隊に編入していた。彼らは自分たちに職(と勝利)を与えてくれたマリウスを支持していた。彼らの支持によりマリウスは(元老院派に対する)民衆派としてコンスルに再選され、ここに政治的改革を試みた。が、元老院との政争に敗れ、やむなくギリシャに渡り隠棲している。
紀元前91年、ローマ市民権拡大が挫折すると、これに反発したローマの同盟諸市が一斉に蜂起、同盟市戦争が始まる。マリウスも帰国して軍役に就く。最終的には市民権の拡大は実現し、戦争は終わった。
さて、同盟市戦争の乗じて小アジアはポントスのミトリデタス王が反ローマの旗幟を露わにしていた。紀元前88年のコンスルに選ばれたスッラが対ミトリデタス戦争の指揮を執ることになっていたが、マリウスは民会で自分に指揮権を与える法案を通す。そこでスッラは実力でローマを占領、マリウス派を殺害して問題の解決を図り、マリウスはアフリカに脱出せざるを得なかった。
スッラが出兵すると、隙を突いてマリウスは軍隊と共にローマに帰国し、スッラ派(元老院派、閥族派)の人間多数を殺害してローマを制圧した。紀元前86年にコンスルに就任するが、その直後に亡くなっている。

分析

ポエニ戦争以降、共和制ローマが抱えるようになった最大の政治的爆弾とは、ローマの軍事力の根幹をなす農民層の疲弊であった。ローマ軍は、あくまでもアマチュアの軍隊として、他に生業を持つ市民が年限を区切った兵役を務めることで成り立っていた。戦役の長期化や属州からの安価な穀物の流入によって農民層が没落すると、軍事力が弱体化し、また貧困層が増大すると社会の不安定化にもつながる。
この点を見通したグラックス兄弟の改革*3が保守派の反対によって頓挫したことで、いずれ共和制の変質は避けられぬものとなった。
マリウスの使った手、失業したり土地を失ったりした無産市民を軍隊に吸収するというのは、その実態においてはグラックス兄弟の解決案よりも遙かに危険なものだった。なんとなれば、軍隊に吸収された彼らは、確かに従来の市民兵と異なり長期の戦役にも従軍可能であったが、その忠誠はともすれば(自分たちの困窮を手をこまねいて見ていただけの)ローマに対してではなく、軍隊を組織し指揮する有力者個人へと向けられていたからである。
かくて共和制ローマの末期、いわゆる「内乱の一世紀」においては、有力者たちが私兵を率いて相争うこととなった。

*1:市民の自弁による軍隊

*2:もしくは軍役によって没落した市民

*3:端的に言えば、没落した無産市民に土地を与えることで共和制の担い手としての市民層の復活を計るもの

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