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マリア・テレジア

(一般)
まりあてれじあ

Maria Theresia(1717年5月13日1780年11月29日
ハプスブルク家(Hapsburg)・オーストリアの「女帝」。ハンガリー女王、ボヘミア女王。マリー・アントワネットの母。
オーストリア大公女マリア・テレジアは1717年5月13日、神聖ローマ帝国皇帝カール六世の長女として生まれた。父が急逝した1740年、父・カール六世が定めた相続順位法(長子相続制とし、代替わりごとの国土の分割を阻止しようとしたもの)によって23歳でハンガリー女王、1743年ボヘミア女王になるが、彼女の即位が国際法違反であると主張するプロイセンフリードリヒ二世(のちにフリードリヒ大王と呼ばれる)がオーストリア領シュレージエン(現在のポーランド西部)に攻め込んで強奪するなどして1740年から1748年、王位と帝位、国土をめぐって戦争(オーストリア継承戦争)が起こった。しかしマリア・テレジアは力強く戦い、自己の相続財産を守り、シュレージエンは失ったものの、夫のロートリンゲン公フランツを神聖ローマ帝国の皇帝の位につかせた(1745年)。フランツ一世の戴冠後、彼女は女帝と呼ばれた。

その後、彼女はシュレージエン回復を目指して根本的な国家改造に取り組む。オーストリア国家を旧来の封建制から近代国家に相応しい新体制にし、国家財政を豊かにさせ強い国へと生まれ変わらせようというものである。そのために人材の登用、中央集権制度の確立とそのための住民調査・官僚制度の強化整備、軍隊の養成や医療制度の刷新、教育制度改革(義務教育の実施など)、宗教改革など、徹底的かつ革新的に行われ、それらは現在のオーストリアの基盤となっている。
外交ではプロイセンと対抗するためにハプスブルク、ブルボン同盟を成立させ、ロシアのエリザベータ女帝とも交渉し、オーストリア・フランス・ロシアの三カ国で反プロイセンの包囲網を敷いた。
1756年、再びプロイセン王フリードリヒがザクセンに進軍、七年戦争が起こった(1756-63)がオーストリアは善戦、翌年にはロシア軍が一時的にプロイセンの首都ベルリンを占拠するに至った。ただ1762年1月、ロシアのエリザベータ女帝が他界し親プロイセンのピョートルが即位したことから包囲網は崩壊し、厭戦気分が広がって1763年に和解が結ばれた。シュレージエンはプロイセンに帰属することが確定し、その後ハプスブルクの版図に戻ることはなかった。

夫の死後(1765年)は、長男のヨーゼフ二世と共同統治した。ヨーゼフ二世はフリードリヒ二世を私淑していた急進派の啓蒙専制君主であり、マリア・テレジアの君主観や政治信念とは馴染まなかった。1772年のプロイセン・ロシア・オーストリアによる第一次ポーランド分割に反対ながら長男の説得に応じて署名、1778年バイエルン継承戦争で再びプロイセンと戦うなど苦労の多い晩年であった。

彼女は非常に健康で夫婦仲も良く、30年間の夫フランツとの結婚生活の間に16人の子供をもうけた。うち長生したのは四人の王子すべてと六人の王女で、その中には後継者ヨーゼフ二世、レオポルト二世、ナポリ王妃マリー・カロリーヌなどがいる。末娘のマリー・アントワネットはヴェルサイユのルイ十六世に15歳で嫁したが、マリア・テレジアは最後まで最愛の娘マリー・アントワネットの行く末を心配し、頻繁に書簡をやりとりしていた。1780年11月29日、シェーンブルン宮殿で死去。享年63歳。

  • 以上、参考文献
    • 江村洋『ハプスブルク家』講談社現代新書
    • パウル・クリストフ編・藤川芳朗訳『マリー・アントワネットとマリア・テレジア秘密の往復書簡』岩波書店
    • 江村洋『マリア・テレジアとその時代』東京書籍
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