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ポール・ニザン

(読書)
ぽうるにざん

[Paul Nizan ポール・ニザン]

1905年2月7日にトゥール(Tours)に生まれ、1940年にオドリュイック(Audruicq)に死んだフランスの作家。父は鉄道技師のPierre Nizan。

ポール・ニザンは1917年にリセ・アンリ-IVでジャン=ポール・サルトルに会う。1924年には高等師範学校(Ecole Normale Supérieure)に入学。二年後にニザンは輸出入業者Antonin Besseに招かれ家庭教師としてアデン(イエメン)に滞在する。

1927年に共産党に入党。また同じ年にアンリエット・アルフェン(Henriette Alphen (1907-1993))と結婚する。この結婚でニザンは二人の子供を得る:アンヌマリ(Anne-Marie (1928)) と パトリック(Patrick (1930))。アンヌマリは後にオリヴィエ・トッドと結婚。オリヴィエ・トッドはフランスのジャーナリスト、エッセイスト。サルトルを主題とする『Un fils rebelle 反抗息子』、ベトナム戦争を主題とする『残酷な四月』、思い出を書いた『身分証明書』などがある。二人の長男が人口動態学のデータを使って未来を読むエマニュエル・トッドである。

アデン滞在により予定より遅れて1929年にEcole Normale Supérieureを卒業する。

1931年に処女作『アデン・アラビ』を (« J’avais vingt ans. Je ne laisserai personne dire que c’est le plus bel âge de la vie  私は20歳だった。これが人生の最良の時だとは誰にも言わせない»)を発表(Rieder社)、パリの知識人界、文学界に認められる。

1931年−1932年高校(リセ)の哲学教師としてブルグアンブレス(Bourg-en-Bresse)に赴任する。同じ年にパンフレット『番犬』(Les chiens de garde)を発表、昔の教師たち、特にベルグソンを批判する。

1932年共産党議員としてアン県から議会選挙に出る。

1933年、グラセ(Grasset)社からアントワンヌ・ブロワイエ(Antoine Bloyé)を発表する。ここでは自分自身が属する社会階級を出世のために裏切る男が描かれている。批評は、フランス最初の『社会的リアリスム』を脱した小説としてこの作品を評価する。

1934年、ニザンと妻のアンリエットはソ連に一年間滞在しマルクス・エンゲルス研究所で研究活動をする。このときソ連作家同盟の第一回大会のためにフランスの作家(アンドレ・マルロー、ルイ・アラゴンなど)のソ連招請の組織を任される。

1939年まで発表(『トロイの木馬』(ガリマール社)、アンテルアリエ賞を受けた『陰謀』)を続ける。
また1935年から1937年にかけて共産党機関紙リュマニテ(l'Humanité)に、1937年から1939年にかけてはスペインの共和党派機関紙である日刊紙ススワール(Ce soir)に寄稿する。主題は国際政策と文学批評だった。

1939年にドイツ・ソ連不可侵条約に反対してフランス共産党を脱退する。

第二次世界大戦の始めにドイツ軍との戦闘でダンケルク近くで戦死する(1940年5月23日)。最後の手稿は発見されていない。フランス共産党はポール・ニザンの人と作品を貶める方針を取り、このためポール・ニザンは長期にわたり忘れられることとなる。特にルイ・アラゴンは『共産党党員』(les Communistes (1949))を書いて積極的にニザンを貶める。この小説の中でポール・ニザンは裏切り者の警察官オルフィラ(Orfilat)として現れる。1960年にサルトルが有名な序文を付した『アデン・アラビ(Aden Arabie)』が再刊され、ポール・ニザンが復権することになる。アラゴンは1966年の『共産党者』再刊にあたりポール・ニザンの登場人物を削除する。また1970年代末になりフランス共産党もニザンの名誉回復をする。

(主に仏語ウィキペディアからのものをG.I.E.N. Paul Nizanの情報その他で補った。ポール・ニザンについては後者のサイトが詳しい。)

ポール・ニザン

(読書)
ぽーるにざん

フランスの作家。共産党員で,人民戦線時代には最も注目された指導的知識人の一人。第 2 次大戦で戦死。独ソ不可侵条約 (1939年) に反対して脱党したため,戦後に共産党から裏切者として不当な誹謗中傷を浴びたが,反抗を貫いた彼の生涯は 1960年代になって党外の反体制派により再発見され,作品も復刊されて多くの読者を得た。日本においても,彼の作品は 60年代後半のいわゆる全共闘世代に争って読まれ,大きな影響を与えた。 (参考:日立デジタル平凡社『世界大百科事典』)
※なお、この部分は西岡様からのご指摘により内容に不備が見つかったため、2003/02/10に書き換えました。深くお詫びいたします。
代表作:
『アデン・アラビア』1931
『陰謀』1938



「彼はコミュニストになり、コミュニストであることを止め、
孤独に死んだ、或る窓の傍で、 階段の上で。
この生涯は、この毅然たる妥協の拒否によって説明される。
彼は反抗によって革命家になった。
そして革命家が戦争に譲歩せねばならなくなったとき、
彼は過激な自己の青春を 再び見出し、反抗者として終ったのだ。
彼の言葉は、若く、きびしい言葉だった。
これを老いさせてしまったのは、われわれなのだ。」
―ジャン=ポール・サルトル―

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