1936年8月4日のベルリンオリンピックサッカーにおいて、初出場の日本が初戦で優勝候補スウェーデンを下した試合。 日本は、前半にスウェーデンに2点を献上。しかし後半に入り、日本は49分に川本泰三が国際大会初ゴールを決め、62分に右近徳太郎のゴールで同点に追い付き、そして終了5分前に松永行が逆転のゴールを決めてスウェーデンに勝利した。 この試合では当時の新技術であった3フルバック制を敷いた。 しかし、2回戦ではイタリアに0対8と惨敗。そのイタリアが金メダルを獲得した。
サッカー日本代表の黎明期 記録によると、日本最初のサッカー国際試合が行なわれたのが1917年5月9日。もう100年以上も前のことになる。東京で開催された第3回極東選手権大会の競技のひとつとして日本チームが参加し、その時は中華民国に0-5で敗れている。 翌10日に行なわれたフィリピンとの試合も2-15で惨敗しており、当時は日本のレベルが相当低かったことが窺われる。ちなみにこの時点では日本サッカー協会は設立されておらず、選抜チームを作るという考えもなかったので、日本代表として戦ったのは予選で決った東京高等師範の蹴球部であった。 しかし、日本最初の国際試合が開催されたことでサッカーへの関心は高まり、…
朝日新聞ツイッターより画像引用 1921年に創設された日本サッカー協会の100周年を記念した復刻デザインのユニフォームが公開されました。復刻のイメージは「ベルリンの奇跡」と語り継がれるジャイアント・キリングを達成したベルリン五輪の際に着用されたユニフォームです。そこで今回は、歴史とともに今回のユニフォームを見ていきたいと思います。
Guten morgen!(おはようございます) そして、新年明けましておめでとうございます🎍🍊 ドイツは日本より8時間遅いので、日本の皆さまから少し遅れて新年を迎えました☺️ 2023年は念願のワーホリに行くことが出来て、部屋探しが難しいと言われているベルリンで奇跡的に家も見つかり 実際に来てみて色々なお話を聞く中で、2024年以降の動きが自分の中で具体的になってきた1年でした。 2024年はとにかくドイツでの仕事探しと、そのために必要な語学力を一刻も早く身につけることが目標です! その過程もまたこのブログを通して情報発信していきたいと思っています。 私は今ドイツ語の語学学校に通っているので…
「世界を巡るサッカー伝道師」 64年の東京オリンピックを控えながら、戦争によるブランクや古い慣習、財政難などで日本代表は低迷。そこで強化を図った日本蹴球協会(現、日本サッカー協会)からの招聘を受け来日、遅れていた日本サッカーの土台づくりと、のちの発展に大きな足跡を残したドイツの名指導者が、デットマール・クラマー( Dettmar Cramer )である。 クラマーは合理的な指導と自ら範を示す姿勢で選手を引っ張り、「ベルリンの奇跡」以来古い体質のままだった日本サッカーに改革をもたらして、メキシコ五輪銅メダルチームの礎を築く。またその活動は代表に留まらず、指導者育成の提言や日本サッカーリーグ創設に…
デットマール・クラマー招聘 ローマ五輪予選では韓国の前に敗退を喫し、他の国際試合でも日本代表チームは芳しい結果を残せずにいた。東京五輪での成績次第では日本サッカーの衰退に繋がりかねず、代表の強化は日本蹴球協会の至上命題となっていく。 ローマ五輪予選開催中から翌年1月にかけて、蹴球協会で代表強化に関する話し合いが行なわれ、外国からコーチを招くことで意見が一致。協会の決定を受け、野津譲会長は、指導者の勉強で西ドイツ留学が決まっていた成田十次郎にコーチ探しを依頼する。 成田は西ドイツサッカー協会の紹介でデュイスブルグのスポーツ大学へ赴き、そこで協力を仰ぐと、「ドイツサッカーの父」と言われたゼップ・ヘ…
どうも!早川和利です。 前回は野球史をご紹介したので、今回はサッカー史を簡単にご紹介していきます! 日本サッカーの始まりは明治時代初期で、イギリス軍人による指導が起源。サッカーは中学や高校で広まり、日本代表も極東選手権で成功。 特筆すべきは1936年のベルリンオリンピックでのベスト8進出と、その中でスウェーデンを破った「ベルリンの奇跡」。第二次大戦後、1950年にFIFA再加盟。 東京オリンピックでベスト8、1968年のメキシコオリンピックで銅メダルを獲得。プロ化検討も、企業スポーツでの拘束から逃れられず。最も近づいた初のワールドカップ出場は1986年のメキシコ大会アジア予選。 1994年にJ…