プロイセン王国
十字軍時代の三大宗教騎士団の一つであるドイツ騎士団が13世紀にバルト海沿岸のプロイセン地方に植民を行って成立したドイツ騎士団領を基に発展し、16世紀に公国、18世紀初頭に王国となった。
ドイツ騎士団最後の団長であったアルブレヒト・フォン・ブランデンブルク・アンスバッハがポーランド王国の宗主権のもとに、初代プロイセン公となった。
1618年、プロイセン公家の断絶に伴い、同じホーエンツォレルン家の系統であるブランデンブルク辺境伯爵家にプロイセン公位と公領が引き継がれ、プロイセンはベルリンと結びつけられた。
1701年、ブランデンブルク選帝侯フリードリヒ3世は、神聖ローマ帝国領外であったプロイセンを王国とし、自ら「プロイセンにおける王」となることに成功、初代プロイセン王フリードリヒ1世となった。
18世紀のフリードリヒ2世(フリードリヒ大王)の絶対王政下でヨーロッパの列強国にならび、19世紀にはドイツ統一をめぐってオーストリアと争い、ドイツ帝国を打ち立てその中心国家となった。
ドイツ皇帝ヴィルヘルム1世はドイツ帝国の成立即ちプロイセン王国の消滅を意味するとして忌避したと言われる。孫のヴィルヘルム2世はプロイセン国王でもあったが、その称号を名乗ることはなかったという。
事実、プロイセン王国は統一ドイツ帝国の中の一邦となった。しかしドイツ帝国憲法は多分に「連邦主義的」な憲法であり、プロイセンは統一以前に持っていた権限のほとんどを継承した。また帝国最大の邦として、事実上帝国の政治的ヘゲモニーを握っていた。
ワイマール憲法はドイツ帝国憲法に比べて中央集権的性格が強かったが、共和政体下においてもプロイセンは生き残った。しかし、そのヘゲモニーは帝政時代に比べ格段に縮小した。
そして第二次世界大戦後の1947年、プロイセン国家の解体が宣言され、名実ともに終焉を迎えた。