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プラーゲ

(音楽)
ぷらーげ

ウィルヘルム・プラーゲ。1888年に生まれ、1969年に没す。
1912年に来日し、ドイツ語の教師などを勤める。そして1931年にヨーロッパの著作権管理団体の代理人に登用され、東京に事務所を開く*1。著作権に対する意識が低い日本の現状を憂慮し、宝塚少女歌劇団への厳重注意、松竹歌劇団の告訴、三浦環のオペラ公演の中止運動(実際に1937年の6月22日から24日にかけて、三浦のオペラ公演中止の仮処分が行なわれた)などを展開する。いずれも外国人が作曲した著作権の保護期間が過ぎていない楽曲を演奏するさいに、多額の使用料を請求することを、最終的な目的としていた。これらの活動は大きな話題になり、「プラーゲ旋風」と呼ばれた。さらに彼は1937年に、日本の作曲家の権利を管理する「大日本音楽作家出版者協会」を設立する*2。もっともプラーゲに対しては、「門出の血祭りにプラーゲを粉砕 不遜な提案一蹴の申合せ」「プラーゲのつむじ風、松竹歌劇団を襲う」「プラーゲ旋風、文化を破壊する勿れ」(いずれも当時の新聞の見出しより)といった反撥が少なくなかった。これらの反撥に、多かれ少なかれナショナリスティックな感情が込められていた可能性は否定できない。
以上の流れを受け、内務省はプラーゲの設立した同協会に抵抗すべく、法案作りを推し進めた。その結果として1939年に「著作権ニ関スル仲介業務ニ関スル法律」(仲介業務法)が制定され、今日のJASRACの前身である大日本音楽著作権協会*3が、音楽著作権を管理する唯一の団体として認可されることとなった。
プラーゲにはいまでも賛否両論がある。「賛」の立場から書かれた書籍としては、森哲司『ウィルヘルム・プラーゲ―日本の著作権の生みの親』(ISBN:4309010644)がある。ただしこれはあくまでも伝記小説であり、厳密な意味でのノンフィクションとは言い難いようだ*4

*1:この事務所の名前は俗に「プラーゲ機関」と称されている。また「近代音楽普及会」「プラーゲ法律工業事務所」とも呼ばれる。

*2:こうした事情があるため、プラーゲの活動がきっかけで日本の作曲家も権利意識に目覚めるようになったとも言われている。

*3:もともとは内務省の呼びかけに応じて国内の音楽関係者によって結成された団体

*4:なおこの説明文を書く上では、『ソシオロゴス』27号掲載の細川修一「著作権制度とメディアの編制」を参照にし、また細川氏本人からも、いくつかの有益なアドバイスを得た。

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