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ドクター・ドレ

(音楽)
どくたーどれ

Dr. Dre ラッパー、プロデューサー、1965年2月18日アメリカ、カリフォルニア生まれ

80年代にDJ YellaとCli-N-Telと共に「ワールド・クラス・レッキン・クルー」を結成し、カリフォルニアのサウスセントラル周辺で活動していたが、1984年に脱退。暴力事件で投獄された際にEasy E(故人)から保釈金を払ってもらった縁で、アイス・キューブ、DJ Yella、MC Renを加えた5人によるラップグループ、「N.W.A」を結成する。これがギャングスタ・ラップ界にその名を轟かせる伝説のグループの始まりとなった。
しかし(Easy Eを含めた)マネージメントに不審を抱いたアイス・キューブが1989年にN.W.Aを脱退、真性のギャングスタであるEasy Eが制裁(リンチ)をくわえる事態となる。キューブ同様不審を抱いたドレも、1991年にグループを脱退、マリオン・シュグ・ナイトと組んで「デス・ロウ・レコード」を設立した。このときもEasy Eは制裁を画策したが、ボビー・ブラウンなどのボディガードをしていたシュグ・ナイト(身長190センチ、体重150キロと言われる巨漢)の逆脅迫によってドレは難を逃れたという(Easy Eを金属バットで脅したのはナイト本人ではなく手下とも言われる)。
脱退翌年の1992年には西海岸ギャングスタの大傑作「クロニック」を発表、「Gファンク」と呼ばれる独自の音楽性を確立する。ドレの義兄弟であるラッパーのウォーレンGの紹介により参加したSnoop Dogg(当時のエイリアスはSnoop Doggy Dogg)は、このアルバムで一躍脚光を浴びる。またデジタル・アンダーグラウンド出身の2Pacも1996年にドレプロデュースでの「California Love」が大ヒット。敏腕プロデューサーとしての名声を固めていく。
しかしドレが大きく貢献した西海岸ラップの隆盛がHIPHOP発祥の地である東海岸との対立感情に火をつけ、東西抗争が勃発してしまう(NYで行われた受賞式典で歓迎されないことに怒ったシュグ・ナイトが口火を切ったとも言われる)。結果、1996年に2pacが凶弾に倒れ、東のノートリアスBIGも同じく銃で亡くなるなど、抗争は泥沼化。ドレはデス・ロウを抜け、自身で「Aftermath Entertainment label」を設立する。その後もエミネムや50セント等のスターを生み出し続け、多少毀誉褒貶はあるにせよ、名プロデューサーとしての名声は不動のものとなっている。

Chronic

Chronic

2001

2001

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