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ダグラス・マッカーサー

(社会)
だぐらすまっかーさー

ダグラス・マッカーサー(Douglas A. MacArthur)1880年〜1964年
アメリカ陸軍軍人(最終階級は陸軍元帥)。GHQ最高司令官として、戦後日本にも様々な影響を与えた。
良くも悪くも個性の非常に強い人物。アーカンソー州リトル・ロック出身。

経歴(主に軍事面)

1880年1月26日、南北戦争の退役軍人で陸軍参謀次長等を歴任したアーサー・マッカーサーの三男として生まれる。
1903年、ウェスト・ポイント陸軍士官学校を史上最高点で卒業*1。陸軍大学校に進まず、フィリピンで工兵少尉*2として基地建設に参加。
1919年、アメリカ軍史上最年少で陸軍士官学校校長に就任。
1930年、中将に昇進、アメリカ軍史上最年少で陸軍参謀総長に就任。
1935年、フィリピンで軍事顧問となり、1937年にはアメリカ陸軍を退役。
しかし、世界情勢の緊迫を受けて1941年7月にアメリカ陸軍に復帰、極東軍司令官に就任。
1941年12月に太平洋戦争が始まるも、連合軍は開戦劈頭に制空権を失い、ついで制海権も失ったことから不利な状況に陥る。在比米軍はマニラを放棄してバターン半島に追い込まれる。が、マッカーサー自身は1942年3月11日「アイ・シャル・リターン」の言葉を残し、大統領命令でコレヒドール島を脱出。オーストラリアで連合国軍南西太平洋方面司令官に就任する。(残された米軍は4月10日にバターン半島で、5月7日にはコレヒドール島でそれぞれ降伏)
その後、ソロモン方面で日本軍が損耗したので反攻を開始、ニューギニア方面の戦線でいわゆる「蛙飛び戦法*3」を展開、機動力を欠いて対応しきれない日本軍を圧倒する。
1944年7月のハワイ会談*4で自案のフィリピン奪回作戦をごり押し*5して実現させる。
1944年10月20日、フィリピン中部レイテ島に上陸「私は帰ってきた」と放送、公約を果たす。翌年2月にはマニラも奪回する。
1945年1月、陸軍元帥に昇進。
1945年8月30日、日本占領連合国軍最高司令官兼アメリカ極東軍最高司令官として厚木飛行場に到着。9月2日の日本降伏文書調印式に出席。以後、日本占領行政のトップとして君臨。
1950年、朝鮮戦争の勃発に伴い、国連軍最高司令官にも就任する。国連軍は釜山橋頭堡に追い込まれるが、マッカーサーはあらゆる反対意見を押し切って同年9月15日の仁川上陸作戦を実施・成功させて戦況をひっくり返す。が、中国義勇軍参戦後に核使用を求めてトルーマン大統領と対立*6、1951年4月11日に解任される。
4月16日に20万人の大群衆に惜しまれつつ離日、19日には議会で「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」の演説を行う。
1952年の大統領予備選挙で敗北。以後レミントンランド社会長として過ごし、1964年4月5日にワシントンで死去。

*1:いまだにマッカーサーの成績を超えたものは出ていない

*2:一般に米軍では工兵の地位は高い

*3:敵根拠地を攻撃する際に、堅固な拠点(例えばラバウル)はスキップしてその後方をいきなり占領してしまう手法。飛び石作戦とも。

*4:ニミッツとマッカーサーの戦略上の立場が衝突していたので、上位者たるルーズベルト大統領がハワイまで出てきて行われた。

*5:回顧録にはまったく違うことが書いてあるが。

*6:ということになっているがこのあたりの文書はまだ機密解除されてないため本当のところは不明。

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