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シニシズム

(一般)
しにしずむ

シニシズム【cynicism】=シニカル根性
(1) キニク学派(キュニコス派)の主張。現世に対して逃避的・嘲笑的な態度をとる。犬儒学派。シニスム。
(2) 社会風習や道徳・理念などを冷笑・無視する生活態度をさす。犬儒主義。冷笑主義。シニスム。
新辞林

まとめ

シニシズムとは、本当はそれ(思想、目標、理想、イデオロギー)が嘘であることを知っている。また、それをだれも信じていないということも知っている。「しかしだからこそ、彼らはそれを信じるふりを止められない。」という状態
(「皮肉=アイロニカル」で知的で批判的態度に見せかけているが、それは能動的なものではなく、受動的に信じているフリをしなければならない強制状態)

例①「自分が所属する会社の理念・理想・目標」を信じているフリをしているが、本当は信じていない。
例②「国家が喧伝する理想の人間社会」を信じているフリをしているが、本当は信じていない。
例③「広告代理店が喧伝する理想の消費社会、理想のライフスタイル」を信じているフリをして友人とお喋りしているが、本当は信じていない。
例④共産主義もしくは資本主義が合理的帰結として人々を幸福にすると説いているが、本当はそれを信じていない。

スローターダイク、ジジェク、大澤真幸、北田暁大他、現代思想の用法↓

スローターダイクの本は、<民主的な政治体制が確立していた>と説明されるワイマール期のドイツの思潮・精神が、実は「シニシズムあるいはシニカル理性」というものによって形成されていたと分析したものだという。

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<シニシズムというのは、自己自身の虚偽性を自覚した虚偽意識>であり、<「そんなこと嘘だとわかっているけれども、わざとそうしてるんだよ」>という態度に<啓蒙の戦略にのっとった批判>は無効である。「それが真実でないことは了解している。つまり自分の裡では既に<啓蒙>は終了しており、その上で意図的に対立する立場に立っている云々」

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正攻法のイデオロギー批判――対立する相手の真実の持つ虚偽性の暴露が、相手にはいっさい届かない。なぜなら対立する相手は自分の真実の虚偽性を充分に承知しているから。<「そんなこと嘘だとわかっているけれども、わざとそうしているんだよ」>

http://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:xru0s4mm6LIJ:d.hatena.ne.jp/discussao/20100213/1266056226+&cd=3&hl=ja&ct=clnk&gl=jp

シニシズムとは「本当はそれが嘘であることを知っている。 しかしだからこそ、彼らはそれを信じるふりを止められない」という姿勢

スターリニズムの支持者は、本当はそれ(スターリニズム)が嘘であることを知っている。また、そのイデオロギーをだれも信じていないということも知っている。「しかしだからこそ、彼らはそれを信じるふりを止められない。(中略)コジェーヴはこの『だからこそ』を主体の能動性として捉えたが、ジジェクは、その転倒はむしろ主体にはどうにもならない強制的なメカニズムだと述べている。人々は無意味だと分っていても切腹を行い、嘘だと分っていてもスターリニズムを信じる。そしてそれは嫌でも止められないのだ。」

(スノビズムとは違いシニシズムの「だからこそ」は主体にはどうにもならない強制として捉える)
(スラヴォイ・ジジェク『イデオロギーの崇高な対象』p298〜299)
(東浩紀『動物化するポストモダン』p101)

消費社会的シニシズムというのは、それまでの思想を支えていた要となる実体を、相対的な差異を提示しあうゲームや戯れの中に、還元してしまうことです。・・・相対的な差異のゲームというのは、差異を追及しているようで、本当は、差異をその内部で相対化しうる、実態の同一性をあてにしている状態です」。
(大澤真幸『戦後の思想空間』ちくま新書、一九九八年、二〇五項)

消費社会的シニシズム

この「消費社会的シニシズム」――広告のうたい文句は誰も真実としてそう言っているわけではない。しかし送り手はそのうたい文句で売り込みをかけていることに疑問の余地はなく、受け手も虚偽と認識している情報を受け入れる結果として、自己の真実が広告に侵食されてしまう、すなわち虚偽の情報が流通する結果として(内面はともあれ)行為としてはそれが真実であるかのように社会的に流通してしまうこと

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北田暁大『嗤う日本の「ナショナリズム」』

60年代は連合赤軍事件を一つの象徴として、近代的な反省の極点となる「総括」、形式化されたことによって「死ぬ(殺される)」あるいは「ゾンビ」として生きざるを得なくさせるまで到達してしまった「自己否定」という反省形式であったと描く。
70年代では、そのような反省を反省する「抵抗としての無反省」が消費社会と結びつくことで生まれた「消費社会的アイロニズム」という流れの中にあった。
しかし、80年代において、この消費社会が大衆化することで抵抗の対象そのものが否認され、「抵抗として」という部分が抜け落ちた「無反省」という反省形態へと転化する。それは、アイロニカルであることを構造化・制度化しすることによる「消費社会的シニシズム」へと移行であるともいえる。事態を具さに見ていく。それは、70年代的な消費社会をパロディとして描いた田中康夫『なんとなく、クリスタル』の「『抵抗としての(をやめた)』無反省」から始まる。

http://www.myspace.com/kaerutobi/blog/436137562

大澤真幸は、1980年代以降の思想を「消費社会的シニシズム」と呼び、それをニューアカデミズムによって象徴させた。彼によれば、たとえば、浅田彰は思想や「知」を消耗品(商品)のように扱い、それぞれを消費されるための記号的な差異としてとらえた。もちろん、これには消費社会の成熟が加担しているのは間違いなく、わたしたちには、商品の生産と消費の遅延化が主な動因であることを知っているが、現象的には大澤の言うように、相対的な差異を求めて、微小な差異を競い合うというようなゲーム思想を定着させた。しかし、大澤の穿った見方によれば、浅田や蓮實重彦は、そういうシニシズムのパロディを演戯したつもりであったのが、それをまじめに受け取った側では、そのシニシズムの毒気にあてられてしまった。浅田らは、意識的に相対的な価値には解消されない絶対的な差異の提供を逆説的に浮かび上がらせようとした。にもかかわらず、それを実体と表層の区別と受け取ったひとたちは、表層だけの差異を競い合い、ゲームや戯れの中に思想を還元してしまうことになってしまったとされる。

http://blogs.yahoo.co.jp/countrytown2010/26049005.html

 「いくらなんでもこんなくだらねぇことやったら、消費社会のなかでの差異化ゲームなんてのもやめんだろう」という戦略的態度で、浅田氏、蓮実重彦氏は『構造と力』などの著作を上梓していて、彼らはそうした方法で、知=思想の消費化を終わらそうとしていたのに、実際にはそれを本気にうけとる人を多く産み出してしまった、と大澤氏はいう(これが本当だとしたら、両人ともすごい悪人だと思うのだが)。ここに氏は80年代の思想「消費社会的シニシズム」をみていくのだが、この思想がどういうものか、あまり私にとって重要でなく、氏の次のような言い方を重要視したい。

 「悲惨なのは、ニューアカで学んだ人たちですね。つまり浅田さんたち が終わらせようとしたことそのものを、まともに学習し、そのままやってしまった人たち。おそらく浅田彰を当時大学に入りたてとか、高校ぐらいで読んでしまった人たちは「ニューアカみたいになりたいな」と思ってや ったので、とても悲惨なことになっているんです。それは、今、年頃でい くと30前後ぐらいの人が多いんです」(『戦後の思想空間』大澤真幸著、 ちくま新書)。
 

http://www.aguni.com/hon/back/maesutoro/09.html

90年代以降からは、再び反省が浮上してくる。これは、80年代的なシニシズムを担保していた「マスコミ」「ギョーカイ」のような行為連結を安定化させる第三項は「失効」.せざるを得ない。このようにして、80年代以上にアイロニー・ゲーム(構造化・制度化されたアイロニー=シニシズム)は過酷になっていく。なぜなら、自身がアイロニカルであることを証明するために第三項は役に立たず、行為に接続する他者によって逐次認証されなければならない。要するに、「マスコミ」や「ギョーカイ」が作り出した批判の形式を視聴者が受け入れているうちに、その矛先が「マスコミ」や「ギョーカイ」に向かい、気づけば、それらが自分たちの規範として役立たなくなってしまった、ともいえるだろう。

http://www.myspace.com/kaerutobi/blog/436137562

 「反時代的」というその「時代」とは、ここでは、「テレビに感動させられていることを知りながら感動を求める」ような時代のことだ。その時代の仕組みは、正面からの批評はもちろん、皮肉による批評すら通じないほどの強固さを持っている。

http://www.yk.rim.or.jp/~h_okuda/wwf/w31_kiyose_01.htm





関連

  • キュニコス
  • ディオゲネス
  • アイロニー
  • ニヒリズム
  • スノビズム

(ペーター・スローターダイク『シニカル理性批判』)

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