(主に中京を中心とした)東海地方の方言で、自転車のこと。 語源として、(ペダルを)蹴ったくる(蹴りまくる)からという説がある。地方によっては「ケッター」と伸ばす場合もある。
類語の「ケッタマシーン」は、自転車を意味する「ケッタ」と機械を意味する「マシーン」の複合語で、「ケッタ」同様に自転車を指す地域と、原動機付き自転車のことを指す地域があるようだ。 関東地方のママチャリの同義語で「ママケッタ」と呼ぶ地域もある。また、「婦人ケッタ」と言う地域もある。
小説というのは何かが時間とともに展開することであって、その展開は中原昌也の小説のように唐突に、暴力的に途絶えたりもする。「途絶える」ということは時間の中でしか起こらない。流れるべき時間が途絶えるということは、「流れるべき時間がある」ということを強く意識させることだ。「唐突さ」というのは時間の中での出来事であって、時間の中の出来事だからこそ、それが本当に唐突かどうかは、事前に(頭の中で)想定しても結局のところはわからなくて、書いてみるしかない。 (保坂和志『小説の誕生』 p.354-355) 6時15分起床。トースト二枚とコーヒーの朝食。トーストに以前二年生のC.Rくんからもらったハチミツを塗っ…
現実に存在している人間というのは、いくつもの面を持っていて、私たちはその人に対して実際のところは統一したイメージを持つことを放棄していて、何か事があるたびにその人との経験からあらためてその人のことを考え直すという風にしているのだが、現実の中では自分がそういう風にしているということをあんまり考えていない。つまり統一したイメージを持つことを放棄しているということを自覚していない。(だからこそ、血液型とか星座とか心理学のタイプ分類の本を読んで、「そうだよね」と安直に納得してしまったりする。こちらの側にきちんとしたイメージができていたらそんなものは必要ない。) しかし小説を読むときには「この人物はどう…
宇宙というとき私たちは、宇宙の中にふわふわ浮かんでいるボールのようなものをイメージしているだろう。しかし宇宙というのはそんなものではない。ではどういうものが宇宙のイメージか? 宇宙は私たちが地球儀みたいに視覚像を持てるようなものではない。視覚像とはそれに似たものによって代用することであって、宇宙は他の何とも似ていないのだから、宇宙をイメージできる像はない。つまり、宇宙について考えるということは、視覚像が拒絶されるということを経験することでもある。 人間は視覚によって把えることができるけれど、人間の一生は視覚によって把えることも視覚によって代用可能なイメージを作ることもできない。しかし私たちは人…
時間の中での出来事というと、ひとつに因果関係がある。しかし私は因果関係というのがどうも胡散臭くて仕方ない。ニーチェもどこかで「なぜ、原因と結果に分けて考えたがるのか。原因-結果はひとまとまりの出来事である」という意味のことを書いていた。 人間は大きな連鎖の中から、自分の理屈で把握できるものを都合よく抜き出して、因果関係という方便を作っているだけなのではないか。 小説のストーリーは因果関係によって作られる。ある犯罪や事故が起きたときも、因果関係が問題にされる。しかし、同じ境遇に育った人間の中で、実際にその犯罪を起こすのはその人ひとりだけだ。現実の行動とそれ以前の過去や状況との間にはその人だけが飛…
今日の一冊 何もありません。 小さい頃? けんぱん(いまだと、めんこ) びーだま 小学校高学年位にブロック崩しのゲームをかってもらってからは、ゲームにハマり、街にケッタでいってインベーダーから始まりパックマン…ゲーム、GAME Gameの日々でしたね。 楽しかったなぁ、夢中で何もかも忘れて没頭してましたね、中学にはいるまでは。 そこから高校2年までは大して面白いこともなく過ごし2年で学校辞めてからは、バイクが楽しくて楽しくて、 しょっちゅう峠に走りにいって、それから車に移ってしょっちゅう峠に走り行って、これもまた、やまに毎日のようにかよっては、みんなとワイのワイので楽しかったなぁ。 ここ最近で…
ルーセルの小説は全体としてひとつの意味を醸し出すような書き方ではなくて、書かれている事物のひとつひとつを押さえていくことを読者に要求する書き方だ。 小説というのはふつう、全体としての意味が背後にあって、それが読者全員に共有されるようになっている、つまり著者によってあらかじめ加工された世界が読者に受け渡しされるようになっているのだが、ルーセルの場合には作中の「私」「私たち」の視線がそのまま読者の視線となっている。だから読者は、「私」によって加工された光景を読むのではなくて、「私」と同じ立場で光景に立ち合わなければならない。 (保坂和志『小説の誕生』 p.127) 10時起床。歯磨きをして洗濯機を…
新しくなければ→古い。 良くならなければ→悪くなる。 希望がなければ→絶望する。投げやりになる。 これら対になっている発想が単純すぎるに違いないのだ。これらは言葉の性質から生まれた、言葉の中の秩序であって、言葉の秩序が世界に対応しているとは限らない。 日常的思考は思いのほか言葉の自動的な運動にのってなされている。文学は言葉による表現だからという理由で、世間の人たちは小説家や詩人など文学に関わっている人間が言葉に精通していると思っているが、そんな言葉の中の秩序に関わることは辞書に任せておけばいいことで、小説家や詩人がしなければならないことは、言葉が世界そのものに対応していないことに気づくことだ。…
たとえば二〇〇四年の「純愛ブーム」「韓流ブーム」は、二〇〇四年の社会的コードをもって接近しなければ何故あんなに多くの読者やファンを獲得することができたのか説明できない。ブームになっているものを宣伝するときに必ず「人はいつの時代も」という表現が使われるが、「いつの時代も」と言うときにかぎって人は前の時代がそうではなかったことを忘れている。いや実体はもっと身も蓋もなく、そんなことを考えたりしない人がブームの支持層になるということでしかないのだが。 ブームはじつは少数の人に向かって開かれている。三百万人の人が読んだ、一千万人の人が見た、といってもそれらは少数派でしかない。人口の九割以上がそれに対して…
あるいはたとえば国全体が戦争に向かって進んでいるというような大状況の中では、戦争を肯定する言葉も否定する言葉も、読者の関心を戦争に向けてしまうという機能において、同じだけ戦争を肯定してしまうことになる。自衛隊のイラク派兵に反対しても憲法第九条を含む会見論議に反対しても、それを話題にしてしまうかぎり大きな流れを変えることはできない。だいたいマスコミも書き手もほとんどすべての人たちが大状況に依存して仕事をしているのだから、文字による表記で反対してみてもその外に出ることはできない。(それらの記事の中に、いままで選挙を棄権していた五〇パーセントちかい人たちに、「次には投票に行こう」という気持ちを起こさ…
社会の中では私たちは、「あれをするか、これをするか」「あっちにつくか、こっちにつくか」「それを悲しむか、見なかったことにするか」という選択肢がいろいろに与えられるけれど、社会の向こうにある世界は選択肢など与えてくれず、茫洋としていて手がかりがない。人はその手がかりのなさに耐えなければならない。それはそのまま、カフカやベケットを意味づけせずに読むことだと言えるのではないか。 (保坂和志『小説の自由』 p.351) 9時30分起床。よく寝た。歯磨きをすませて洗濯機をまわす。11時前になったところで寮を出る。第四食堂の「(…)」で麺を食す。店員の兄ちゃん、こちらの存在をおぼえていたらしく、唐辛子はい…