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オクタウィアヌス

(一般)
おくたうぃあぬす

Gaius Julius Caesar Octavianus(紀元前63年〜紀元後14年)

オクタヴィアヌスとも。初代ローマ皇帝(在位紀元前27年〜紀元後14年)。大叔父にして養父のカエサルの跡を継ぎ、共和制ローマの「内乱の一世紀」を終わらせ帝政を開始した。

略史

カエサル(ユリウス・カエサル)の姉ユリアの孫、ガイウス・オクタウィウスとして生まれる。早くから才気を見込まれ、カエサルに気に入られていた。

紀元前44年のカエサル暗殺後にローマに帰国、カエサルの相続人に指名されていることを知り、名をガイウス・ユリウス・カエサル・オクタウィアヌスと改める。当初は覇権をアントニウスらと争うが、後に妥協を図りレピドゥスとともに第二次三頭政治を開始する。とりあえず互いの政敵を粛正した後、カエサルの復讐に乗り出し、暗殺の首謀者であるブルータスとカッシウスを倒す(紀元前42年、フィリッピの戦い)。
復讐が済むとまた抗争が発生しそうになったが、ローマを三人で三分することで和解が図られ、オクタウィアヌスの姉、オクタウィア(オクタヴィア)がアントニウスの元へと嫁いだ。
紀元前36年、反カエサル派(もしくは元老院派)の最後の大物、セクストゥス・ポンペイウスが討ち果たされると、再び抗争が起きる。まず、レピドゥスが失脚する。
アントニウスは東方のパルティアを討とうとするが、うっかりプトレマイオス朝最後の女王クレオパトラ(7世)に引っかかってしまい、オクタウィアを離縁してクレオパトラと結婚してしまう。のみならず、クレオパトラとカエサルの息子のカエサリオンを共同統治者に選ぶ。カエサルの養子で後継者であるというのがオクタウィアヌスの権威の一端であったから、これはそれに対する挑戦であると言えた。ここに両雄の直接対決は避けられぬものとなった。
紀元前31年、アクティウムの海戦でオクタウィアヌスはアントニウスとクレオパトラの連合軍を破り、翌年二人を自殺に追い込む*1
かくて内乱に勝利したオクタウィアヌスは紀元前29年にローマに凱旋、わずか34歳でローマの全権力を握るに至った。オクタウィアヌスの真骨頂はこのあと発揮される。カエサルがなぜ殺されたのかを理解していた彼は、形式上は元老院と共和制を最大限に尊重する必要性を熟知していた。
紀元前27年、オクタウィアヌスは共和制の復活を宣言する。これに対して元老院からは「アウグストゥス」という尊称を贈られた。以降、彼はアウグストゥスと呼ばれる。彼は共和制の諸制度を維持したまま、護民官職権(に伴う身体不可侵と拒否権)やプロコンスル指揮権、最高神祇官としての権威、個人としての政治的地位などを組み合わせ、プリンケプス*2として事実上の皇帝として政治を行った。

カエサルが信長と秀吉を足して二で割った人とするならば、秀吉と家康を足して二で割ったような人(根拠なし)。

最終的な正式称号はImperator Caesar Divi filius Augustus, Pontifex Maximus, Consul XIII, Imperator XXI, Tribuniciae potestatis XXXVII, Pater patriae*3

*1:ついでにカエサリオンも殺害

*2:第一人者

*3:インペラトール、カエサル、神の子アウグストゥス、最高神祇官、コンスル13回、インペラトール歓呼21回、護民官職権行使37年目、国父

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