Imperator(ラテン語) 司令官、指揮官、皇帝。 元来は重要な勝利を収めた将軍をローマの兵士たちが称えるときに使われた呼び方。それから、顕著な軍事上の功績があったと元老院によって認めらた時に与えられる称号(多少の特権付き)となった。 君主制への移行後は、アウグストゥス(およびその後継者)が持つ称号となり、後の皇帝(emperor)の語源となった。
(1913年版Websterより抜粋翻訳)
約500年続いた共和国ローマは、カエサルによってローマ帝国へと生まれ変わります。多くの人々が信じた共和政は国家ローマそのものの進化に対応できず、その役割を終えることになりました。 カエサルの死と、後を継いだオクタヴィアヌス(アウグストゥス)の巧妙さによって、おそらく当時の人々で共和政から帝政へ切替わったことを意識した人はほとんどいなかったと思われる。 ◾️帝政への移り変わり 歴史上、ローマ帝国の始まりは紀元前30年頃とされています。これは15年に及ぶ内戦でオクタヴィアヌスがアントニウスを破り、ローマに凱旋した年。カエサルの暗殺を身近に感じていたオクタヴィアヌスは、帝政への移行はとても慎重に、目…
カエサルを書き出して、気がついたら1年半ほどが過ぎていました。さらっと書こうと思って、ここまでずいぶんはしょってきたつもりでしたが、カエサル関連の記事は50、カエサルだけで8万字くらいの文字を費やしたみたいです。 正直とても驚いているのです。なぜかといえば、今になって僕は、20代でカエサルに出会ってから、知らず知らずのうちに30年ほどカエサルと共に過ごしてきたことを、今更に気づいたのです。 何度もローマ人の物語を読み返し、ローマやカエサルに関する書籍や資料を読んだり見たり、いろいろなカエサルと接してきました。「とてもあんな風には生きられない」と、特に意識してきたわけではないのだけど、振り返って…
「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」 これは、聖書の中で、神が自ら政教分離を命じている有名な箇所である。 コンスル、護民官、インペラトールなどの政治的権限は政治部門である皇帝に、そしてまた、祭司職、教師職などの宗教的権限は宗教部門である教会に帰する様に、つまりは、各職域毎に、権限を分かつ様に命じているのである。 キリスト教会は、もとより、帝国の政治組織からは、全く別のものであった。ヘブライズム的出自なのだ。 一方で帝国の方は、キリスト教を国教化する以前は、現•元皇帝はローマの多神教の神々のうちの一つとされ崇拝されていた。ローマは政体が王制→共和制→帝制へと移り変わる中で、アテネの…
カエサルがタプソスで勝利して、ウティカ(現チュニジア)に入城したことで実質的に内戦が終了します。まだ未踏だったコルシカ島とサルディーニャ島を経由して首都ローマに帰還してから僅か10日後、カエサルのこれまでの戦功に対するド派手な「凱旋式」を執り行います。 ◾️凱旋将軍カエサル 凱旋式はローマ人にとっての最高の栄誉。軍事の天才ポンペイウスならば20代のころ既に凱旋式を執り行っていたのに対して、遅咲きのカエサルの凱旋式は54歳にして初めてのことでした。 紀元前46年8月、カエサルは10日ほどの間に四回の凱旋式を執り行います。1日目はガリア人に対する戦勝、2日目はエジプトのプトレマイオス13世に対する…
カエサルがアレクサンドリアに到着したころ、ちょうどクレオパトラ7世は弟王とその取り巻きによってアレクサンドリアから追放されていました。 逆境に立たされたクレオパトラはローマ内戦の勝利者カエサルに賭けました。退路た絶たれた21歳が、会ったこともないローマの将軍を相手に命懸けで一世一代の大勝負を仕掛けるのです。 カーペット(諸説あり)に包まれてカエサルの部屋に運ばれ、解かれグルグル回りながら転がり出た様はよほどコミカルだったでしょう。しかしクレオパトラは大真面目にカエサルの前に現れて、自分の窮状を訴えた。突然の侵入者ではあっても全く殺気のないことがわかるくらいコミカルなクレオパトラの登場に、カエサ…
ローマ世界西側の制覇行でヒスパニアを平定した後、カエサルは海路マッシリア(マルセイユ)に再訪して、揉めに揉めていたこのギリシア人の街を服従させます。これによってカエサルは当時のローマ世界の西側を手中にしました。護民官クリオを派遣した北アフリカのカルタゴのウティカ攻略は失敗に終わったものの、ポンペイウス追撃に最低限必要な体制が整いつつあったといえます。 ◾️独裁官カエサル カエサルは紀元前49年12月に一旦ローマに戻り、独裁官(Dictator)に選出されます。ローマには古くから緊急事態収拾のために一時的に権力を集中させる「独裁官」という政治システムがありました。権力集中とか王とか独裁とかに過敏…
・天応1年(781) 4.3 光仁天皇の譲位により、山部親王は践祚した(桓武天皇)。(『続日本紀』) ・天応1年(781) 4.4 桓武天皇は、同母弟,早良親王を皇太子とした。(『続日本紀』) ・天応1年(781) 4.15 桓武天皇は大極殿において即位宣命を発した。(『続日本紀』) ※践祚の儀と即位礼はこの時に分離され、以後の恒例となった(米田雄介:監修 井筒清次:編著『天皇史年表』)。 ※即位宣命には、即位の根源として、天智天皇が定めたという「不改常典」が強調されていることから、父,光仁太上天皇のかつての即位とは異なり、新王朝の開始を意味するものであったとも解釈される(倉本一宏『はじめての…