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インパール作戦

(一般)
いんぱーるさくせん

昭和19年(1944年)3月〜7月、第十五軍(軍司令官:牟田口廉也中将)とインド国民軍(総兵力あわせて約10万人)が、第三十三師団(師団長柳田元三中将、作戦中に更迭され、のち田中信男中将)をもって南より、第十五師団(師団長山内正文中将、作戦中に罷免され、のち柴田卯一中将)をもって東より、第三十一師団(師団長佐藤幸徳中将)がインパール北のコヒマに進出、インパール平原に拠る英軍を駆逐し、3週間でコヒマ、インパール占領を目論んだ作戦。
軍司令官の功名心とインドの革命家チャンドラ・ボースへの政治的配慮により作戦は発動された。
日本軍は補給計画なく、輸送用の家畜を食料にする計画であった(ジンギスカン作戦)。しかしこの家畜もチンドウィン河渡河、およびアラカン山脈越え中に失ってしまう。一時コヒマを占領(宮崎支隊:宮崎繁三郎少将)したが、主力がインパールに進出しないまま、雨季がおとずれ、食料や弾薬も尽きてしまう。5月以降、英印軍(司令官:スコーンズ中将)は第十四軍(スリム中将)に増援を行い反撃を行う。6月1日第三十三師団が独断退却。その後7月3日作戦中止命令が出て、作戦は失敗に終わる。戦死者3万。傷病兵4万、チンドウィン河の右岸に集結できた第十五軍の3個師団の残存兵力は作戦前の三分の一であった。そしてその退却路は白骨街道といわれた。

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