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アメリカ独立革命

(社会)
あめりかどくりつかくめい

アメリカ独立戦争とも。
1775年4月のコンコードの戦いに始まり、英仏の世界規模の大戦に発展し、1783年9月のパリ条約によって終わった。
イギリスは国際的に孤立して不利な戦争を戦うことになり、アメリカの独立を認める結果になり、フランスは久しぶりに英国に苦杯をなめさせた(が、戦費という負担が戦後のフランスに重くのしかかることになる)。

ボストンティーパーティーまで

1763年のパリ条約の締結をもって、英仏間の戦争状態は終結した。北米大陸に一大植民地ヌーヴェル・フランスを築くというフランスの野望は打ち砕かれ、英国の覇権が確立した。
だが、戦争に勝利したイギリス本国も、多大な戦費の負担(と植民地維持のための諸費用)に苦しんでいた。本国政府の負担軽減のため、イギリスは植民地に応分の負担を求めるという意図のもとに印紙税法を1765年に制定した。
しかし各植民地はそれぞれに組織された議会を持って自治を行っており、その頭越しに決定された印紙税法はつまりは自治権の侵害であると考えられた。そもそも新規課税というものはいつの世も反発を生みがちなものである。よって植民地人は激しい反発を抱き、英国製品ボイコット運動や暴動などに発展、わずか1年で同法は撤回された。
が、イギリスは懲りずに*11767年にタウンゼンド諸法(Townshend Acts)を成立させた。これは以下のような内容の一連の法律と政策から成り立っていた。

  • 宿営法(Quartering Act)に従わなかったニューヨーク植民地議会の解散
  • 植民地が輸入する諸産品(茶など)への輸入関税の賦課
  • 上記輸入関税を徴収するため、植民地に関税局を設立
  • 航海法の厳格適用*2と海事裁判所の権限拡大

これまたやっぱり各植民地(と植民地人)の憤激を招いた。関税局の職員は英本国が決め、関税からその給与が支払われるという形になっており、植民地政府をスルーして税金を集めようという形になっている。通信が未発達であった当時、本国と植民地間の意思疎通はきわめて不十分で、このような施策が植民地の自治を損なおうという本国の陰謀ではないかと疑われる余地は多々あった。当然本国側も植民地の事情をよく把握しているとは言えず、相互不信が高まる土壌は十分だった。
関税局は関税を払わない植民地人の船を拿捕するなどしたため、植民地人の反感はさらに高まる。1770年5月5日にはイギリス兵と植民地人と偶発的な衝突事件でイギリス兵の発砲により5名が死亡した。これは「ボストンの虐殺」(Boston Massacre)と呼ばれ、やっぱり植民地人の怒りを招いた。

さて、イギリス議会は1770年に「茶税を除いて」タウンゼンド諸法を廃止した。しかしというかやはりというか、植民地人の怒りは静まらなかった。今度は茶税に矛先が向けられ、茶に対する不買運動という形を取った*3。必然的に植民地で茶の輸入を営んでいた商人たちは大量の在庫を抱えることになってしまった。
それだけならまだしも、イギリス議会が今度は1773年に茶税法を制定した。これはイギリス東インド会社の経営の救済のため、同社が北米で安く茶を売れるようにしよう、という法律だった。
そんなことをされたら、ただでさえ不良在庫で苦しんでいる商人たちは破滅である。また、自分たちと無関係な東インド会社*4を救済しなくちゃならんのかとか、そもそも本国が植民地での税金を云々すること自体が自治権の侵害*5だとか、そういう反発もあった。
ついには1773年12月16日に、独立論者サミュエル・アダムズらを首謀者とするボストン市民がネイティブ・アメリカンに扮装して東インド会社船に乱入、積み荷の茶を海に投げ捨てるという事件が起きた。(ボストン茶会事件)
イギリス軍は事件の報復として、ボストン港を封鎖した。

大陸会議

さて、ボストンティーパーティを(細かい現地の事情を知らない)イギリス本国側から見ると、
「植民地人たちがなにやら陰謀を巡らし、イギリスの商船を襲撃してその積み荷を強奪・破棄した」
という事件になる。もともと本国側の意識としては、大変な労力の末にフランスの脅威を北米から除いたのだからその分の負担を多少回収しようというのは当たり前だし、北米に駐留するイギリス軍*6の費用を現地で賄えるようにするのも当たり前だというようなものだった。
「当たり前のこと」をやろうとしているだけでこんな騒ぎが起きるとは尋常ではないから、つまりは、不平分子による擾乱を除いて、現地の秩序を回復せねばならない。大雑把に言うとイギリス本国はこのような考えに至った。

そういうわけで、1774年、「耐え難き諸法」(Intolerable Acts)と呼ばれることになる一連の法案*7がイギリス議会を通過・成立した。内容は極言するといままでとまったく同じで「本国側は正当な内容だと思っていたが、植民地人たちにとっては不当な内容」だった。そもそも、「法令を出す→植民地側が反発→事態の悪化」というサイクルが過去の失敗パターンだったのだから、それを繰り返しても問題解決に繋がるはずもない。


ともかく、各植民地は事態の解決を図るため、12の植民地議会*8からの代表*9をフィラデルフィアに集め、「大陸会議」を開催した(第一回。1774年9月5日〜10月26日)。
会議の結果、彼らは、「耐え難き諸法」の撤回を求めてイギリス製品のボイコット(とイギリスへの輸出停止)を一致団結して行うことを決議し、さらに翌年5月10日に再度会議を開くことを約した。
だが、その前に事態は動くことになる。

*1:印紙税法で失敗したから前と違うやり方で税を徴収しよう、とかそういうレベルでは反省していたが

*2:植民地においては、航海法に反する海運行為が割と日常茶飯事に行われていた。従来は「植民地が頑張ってるんだから別にいいんじゃないの」と大目に見られていたが、戦争が終わったし英本国の経済的利益を優先するためにそれを取り締まろうという話になった

*3:アメリカにおけるコーヒー文化発展の起源はこのときの紅茶のボイコットにあるともされる

*4:名前の通り、東インド=インド亜大陸での植民地経営に携わっている

*5:「代表無ければ課税無し」である

*6:フランス軍の脅威は去ったが、開拓地の拡大を求める植民地人たちと、先住民(いわゆるアメリカ・インディアン)との軋轢を避けるため、イギリス軍が駐留を続けていた

*7:一般には以下の5つの法律、Administration of Justice Act、Boston Port Act、Massachusetts Government Act、Quartering Act、Quebec Actを指す

*8:13植民地中、ジョージアのみ不参加

*9:後の大統領、ジョージ・ワシントンやジョン・アダムズらも含まれていた

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