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すべからく

(一般)
すべからく

漢語の「必須」などの「須」の字の訓読のために「すべし」のク語法から作られた。

「須」の古典中国語としての意味は前置詞で、意味は「need to」、「する必要がある」。
そこから一般化した日本語としては、当然、妥当、必要、義務、の意で使われ、通常は述語もまた義務や命令の意味の言葉(「べし」など)で受ける。
例:「友と交わるには、 すべからく三分の侠気を帯ぶべし」

しかし義務の意を含まない文に応用されて近年、「必然的に」「当然のように」「そうあるべきこととして」という意味用法が派生した。この点について「すべての」の意で誤用されるとしばしば指摘されるが、この派生義を「すべての」の意味であると捉えるのは正確ではない。本来の用法が当為の意味を含まない断定文に応用されたとき、「そうするのが当然」の語気が「そうであるのが当然・必然」の意味にずれたと見るべきである。

たとえば、「美しいひとの精神はすべからく美しい」は「すべて美しい」ではなく「必然的に、必ず、決まって美しい」の意である。

ただし上記のニュアンスもなく、完全に「すべての」という意味で使うのはもちろん誤用。
ただ、この誤用の指摘においては、「すべからく=all」として使うことの誤りを単純に指摘するというよりは、カッコつけてわざわざ難しそうな言葉を使おうとしてスベってしまうという浅薄さ、見せかけの教養を気取ることへの批判が含まれるようである。
なお、どうしても「すべて」を意味するカッコつけた難しそうな言葉を使いたい場合は「おしなべて」と書くことを提案する。「おしなべて」であれば「すべからく」と同じく五文字で「べ」という文字も入っている。

「すべからく」の正しい用法は「政治家はすべからく襟を正すべし」みたいに、最後に「べき」とか「べし」がつくことになっている。そんでこれは「政治家は全員襟を正すべきだ」という意味ではない。すべからくは「全て」という意味ではない。「すべからく○○すべし」という一種の定型句だ。つまり、「政治家はすべからくバカだ」という用法は誤りで、この場合は「政治家は総じてバカだ」とか「政治家は概してバカだ」とか「政治家はおしなべてバカだ」と書くべきところ。
id:kowagari:20040721#1090373270

多分俺が「すべからく」の誤用に固執するのはそれを誤用する人の中に、仰々しく言おうとかもっともらしく言おうとかいう気味悪い意図があるからで、言うなればすげえかっこつけて黒ずくめのスーツ着てるのに靴下白じゃん! みたいなアレなのだと思う。つっこまずにはいられないかっこ悪さがそこにはある。澁澤龍彦さんが唐十郎さんにつっこんでいたのも確か同じ理由だったはずだ。
id:kowagari:20040722#1090514497

評論家の呉智英が書いてから、
「須く(すべからく)」ということばの誤用について、
とてもおおぜいの人が注目するようになったけれど、
もともと呉智英は、
「すべからく」に代表されるような
「むつかしそうなことばを、えらそうに使う」人の
イージーな教養主義をからかいたかった
ということなのであって、
「すべからく摘発組」を組織したかった
わけじゃないと思うんですけどね。
http://www.1101.com/darling_column/2003-10-27.html

この問題についえは、私は自分の著作で何度か述べているが、簡単にまとめて再論しよう。

  1. 無知は恥ずかしいが、それはそれだけのことである。失敗は私にもある。誤字誤用も然り。
  2. 「須く」は「すべし」のク語法による変化であり、意味は、義務・命令・当為である。非常に分かりやすく言えば、「すべからず」が禁止(するな)なのだから、「すべからく」が命令(せよ)だと思えば、当たらずといえども遠くはない。
  3. だが、誤用がこの十余年、特に目に付く。それは「須く」を「すべて」の高尚な雅語だと思ってのことである。そして、この誤用者は、ほとんどスベカラク次の二種類の人である(上野よ、どうしてこの文章を「すべし」で結べると言うのだ)。一つは、上野に代表される反権威・反秩序・反文部省の人たち。そして、もう一つは、前者ほど多数ではないが、宮本盛太郎など、前者とは逆に反権威・反秩序・反文部省の人たちに反感を覚えながら、単に、反反権威・反反秩序・反反文部省を対置することしかできない人たち。この二種類である。
  4. そこには、次の心情が見てとれる。まず、前者。権威主義的な雅語・文語を批判しているつもりのその心の底では、自分が雅語・文語をつかいこなせない妬みがとぐろを巻いている。この人たちが権威批判をするのは、自分が権威から疎外されているからにすぎない。次に、後者。この人たちは、戦後民主主義の中では、本来は権力に関わる立場にいながら、言論界ではしばしば少数派の悲哀を味わ(原文ママ)わされている。言ってみれば、アメリカにおけるプア・ホワイトである。プア・ホワイトの妬みの構造は、前者と類似している。つまり、前者も後者も、心情的に、自分が正統になりえないことの都合のいい大義名分として、反正統を唱えているのである。
  5. というようなことも、やはり省みれば、誰の心の中にもスベカラク存在する(上野よ、これはどうだ)。だから、これについても、単純な無知無学よりねじれている文だけ、卑しいが、私のみが石もて打つことはできない。
  6. しかし、民主主義は、この卑しさを制度的・構造的に生み出し増殖させる。それは、平準化=「易しさへの強制」の逆説である。漢字は難解であり権威主義的であり、特権階級にのみ奉仕するものだとして、民主主義の名において、易しさへの国家権力による強制が行われた。当用漢字制度などの漢字制限である。「須く」も、この一環として、国家権力によって抹殺されたのだ。
  7. それでも、国家権力によるどんなに理不尽な蛮行があったとしても、結果的に、易しさの実現が成功し、ひいては、あらゆる権威が消滅する社会が到来したのなら、それはそれでかまわない。だが、現実に到来したのは、漢字制限による言語表現の混乱と、それに乗じて、反権威を大義名分にする権威亡者の跳梁だけであった。
  8. ここにこそ、民主主義の究極形がスターリニズムとファシズムであることが、はっきりと現れている。
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