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古神道の研究者でアワ歌普及にご活躍の宮崎貞行さんは、平成二十四年十一月二十六日に、山梨県河口湖町の由緒ある富士講御師の家、梅谷本庄家を訪ね、その屋根裏部屋に秘蔵されていた多数の古文書を実見しました。その中のひとつが『秘書 神代和字 全』と題された写本です。氏は早速、池田満さんと千葉富三さんに原文調査を依頼し、その結果、既に発見されていた残簡文との照合からミカサフミの未発見部分であると判明。原文はデ…
平安時代の宮中を舞台にしたドラマ「光る君へ」。第16話「華の影」のあらすじを見て行きましょう。第16回「華の影」では、994年(正暦5年)の様子が描かれました。 (困ったねえ) まひろとさわは、仲良く石山寺に旅行に出かけたのですが、帰路には2人に溝ができてしまいます。さわは「私には、才気もなく、殿御を引き付けるほどの魅力もなく、家とて居場所がなく・・・。もう死んでしまいたい!」叫んで駆け出します。…
壬申の乱以降について考えた話です。 これまでの記事 権力は奪取したが 律令を目指すが 最終的には これまでの記事 少し前に、壬申の乱について記事を書きました。 yokositu.hatenablog.com 白村江の戦いで唐・新羅の連合軍に敗れた天智天皇が、その後の連合軍による侵攻に対する恐れを背景に、各地の勢力を兵力として利用しようとします。 大和政権との関係が冊封的なものであった各地の勢力は、…
さてこの新しい教義を、覚鑁はどのようにして広めようとしたのか。 1130年、高野山上において彼は新たに「伝法院」という名の寺院を建立する。密教寺院には、そもそも「伝法会(でんぽうえ)」という教義上の議論を行う、研究会のようなものがあった。空海の十大弟子のひとりであった実恵が始めたものだが、高野ではいつしか行われなくなって久しかった。彼はそこに目をつけたのである。 覚鑁は高野山において、教義上の研究…
いろいろ難しい できない事が多いようだ。
・亀田俊和氏の勤務先への抗議などは、絶対にやめて下さい。宜しくお願い致します。 ・初めて当エントリーを読まれる方は、亀田俊和 - Wikipediaの他、以下の「呉座勇一事件(呉座騒動)」に関する記事などの、ご一読をお勧め致します。 kensyoiinkai.hatenablog.com kensyoiinkai.hatenablog.com kensyoiinkai.hatenablog.com…
日本古代史の勉強をしていて、田中英道先生のお名前を拝見する機会がありました。 この本は、定価7,000円の本なので、簡単に入手とはならないのですが、個人的に日本人のルーツとはと、色々な文献に目を通して来ましたが、その中で田中先生の資料を拝見するにあたり、とても興味深い考察だと思っています。 今まで日本建国の起点を「邪馬台国」「倭」「倭国」「大和」とした考察の書物ばかりで、一例ですが日本武尊の東征の…
医王山正智院泰平寺(たいへいじ)は鹿児島県薩摩川内市大小路町にある。かつての薩摩国の高城郡(たきのこおり)の水引郷(みずひきごう)のうち。 天正15年(1587年)、豊臣秀吉は島津氏を攻める。大軍勢を率いて薩摩国に入り、陣を置いた場所は泰平寺であった。豊臣軍は圧倒的な兵力で島津方を敗走させる。島津義久(しまづよしひさ)は降伏。そして、剃髪して泰平寺におもむいた。豊臣秀吉に面会し、降伏が正式に認めら…
朝起きて、お昼まで荒川の土手でのんびりしていました(晴れ渡って…気持ちのよい風が吹いていました) 今日の東京は晴れのち曇り。 最高気温は26度まで上がりました。 夏日ですねー。でも爽やかな風が吹いていたので、それほど暑くは感じませんでした。 4月ですが、これで夏日も2回目だったかな? 今年の夏も暑ーい日々がやってくるのかしら…ふとそんなことを思いました。 (暑いのダメダメなので、この夏も溶けてしま…
棒道(上の棒道) 訪問 2022年 8月 駐車場 有り(甲斐小泉駅前) 案内板 有り 「新府城」紹介編からやや強引に繋げてますが、武田信玄が軍用道路として整備したと伝わる「棒道」ぼうみち の紹介編です。 読み方は「ぼうみち」なんですね、「ぼうどう」かと思ってましたが。 棒道について現地の案内板の紹介を載せておきます。 棒道 「棒道」とは、戦国時代の甲斐の武将武田信玄(1521~1573)が、北信濃…
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